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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-②

<1>ドイツ帝国崩壊

まぁああ書いては見たものの、歴史とは因果の連続。

ワイマール共和国のことを書くとなれば、まずその建国に至るまでの話をせねばならない。

というわけで、今回は帝政ドイツの崩壊について書く。

ドイツ帝国最後の皇帝ウィルヘルムⅡ世。

彼は民衆に「朕は汝等を偉大なる時代へ導く」と豪語し、

オーストリアとの同盟を重視して第1次世界大戦の戦火へと飛び込んだ。

しかし、その時点で軍部からは「将帥たる器ではない」と思われていたし、

政治家の器でないことも政府閣僚から認知されるところとなっていた。

なぜなら、臣下の意見に対して決然と抵抗できないほど意思が薄弱であったからである。

皇帝たるものは最高権力者であるから、

法やその権限を逸脱するものに対してはそれを守らせなければならないものである。

にも拘らず、その意志の弱さによって結局は軍部の独走を許し、

戦渦を徒に拡げてしまう結果となってしまったのである。

この点においては、日本の昭和天皇にも同様の傾向が見受けられる。

話はドイツに戻る。この、軍部の独走による厄災の際たるものは、

戦略上悪名高い「無制限潜水艦戦」である。

この作戦が陸軍最高幕僚たるヒンデンブルグ、ルーテンドルフの両将軍から出された時、

海軍大臣ティルピッツは反対したが、当時常勝と言われていた陸軍に対して

当時の宰相ベートマンは抵抗しきれずティルピッツを罷免してしまった。

しかし、今度は当のベートマンが外交上の問題点を指摘してこの作戦に反対した。

これに対して軍部は、この問題を皇帝に直接上奏、

作戦遂行の裁可を受けた(1917年1月)。

結果として、当時いまだ中立を保っていたアメリカをこの戦争に引きずり出すことになり、

ドイツは惨敗。海外の植民地を含め多くの領土を失うことになった。

ココまで見ていくとわかるが、この道を大日本帝国を歩むわけで、

歴史とは多くの示唆を含んでいることがわかるであろう。

再び話をドイツ帝国に戻す。

戦況が劣勢になって久しい1918年9月末、

最高幕僚たる両将軍は帝国宰相(当時はヘルトリング)に即時休戦の必要を説いた。

宰相もそれを了承、皇帝はもとより「よきに計らえ」状態であったから、

宰相はアメリカを仲裁役に選んで休戦、講和の準備に入った。

しかし、ここでアメリカ側が提示してきた「14条の覚書」では

アメリカはドイツに対し講和ではなく降伏を要求した。

これを見た閣僚は戦慄し、

「最高責任者たる皇帝が退位してくれれば、これよりもいい条件で講和できるのでは」

とさえ考えるようになった。

議会では、もっぱら皇帝退位問題が取り上げられ、

民意も、そして前線の兵士も退位の方向に傾いていた。

ベルリンに居場所を失った皇帝は、前線へと出かけていった。

そして1918年11月4日、皇帝に致命的打撃を与える事件がキール軍港で起こった。

きっかけは、停泊していた全艦艇に赤旗が掲げられたことであった。

そこから革命的水兵が隊を組んで、各地へと革命の炎を広めるために繰り出していった。

それに対して、国家に鎮圧する能力はなく、社会主義政党である社会民主党も

党員を押さえつけられないほど革命は広まっており、

皇帝の退位を重ねて訴えるほか手段を持たなかった。

そして11月9日、皇帝の退位と皇太子の帝位継承権放棄が宣言され、

同11日休戦条約に調印、全戦線で銃声が止んだ。

そして、ドイツは共和国へ変わる道を歩みだした。

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