「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-④
<3>国民議会
「人民代表委員会議」は対外的には休戦、講和の準備を進めつつ、
対内的には共和国と言う政体にふさわしい共和国憲法作成の準備も行っていた。
その草案の作成責任者には内務大臣を充てることに決まっており、
その任には、ベルリン商科大学国法学教授であるプロイス教授に決まった。
彼は、ユダヤ人ということもあって長く不遇であった。
それまで講師であったものが、商科大学が新設されることで
ようやく教授の身分を手に入れることが出来たのである。
また、左派の政治家として活動しおり、口も悪かった。
そんな彼に白羽の矢が立ったのは、
1917年7月に当時の宰相ベートマンに出された意見書の内容によるものであった。
それには、立憲政治の方向転換の必然性や、
当時はまだ君主制が残っていたために君主制の性格を維持しながら
方向転換するための案を、見事に書き上げてあった。
そのため、これを読んだ誰しもが「彼こそ憲法草案作成に最適である」と思ったのである。
そうして作られた彼の憲法草案で特に問題になったのは、
いままでの連邦制ではなく強力な中央集権主義であった。
これには、右派も左派も反対した。
まず、西部のラインラントが反旗を翻し、「ライン・ウェストファーレン独立共和国」
設立の機運がこの地方で高まった。
彼らの主張は、あくまでもドイツ連邦には留まるというもので、
あくまでも中央集権に対する非難による運動であることを強調していた。
しかし、この中央集権批判はそのうち一人歩きを始め、
ついには赤旗を揚げて社会主義国家として分離独立を目指すところまで現れてしまった。
南部のバイエルン邦では、その首都ミュンヘンに赤旗が翻り、
極端な社会主義的分離主義が台頭してきた。
当時のバイエルン邦政府が猛烈な反プロイセン派で固められていたからでもある。
中央政府は、「これはあくまでも草案である」とか何とか言って
これらの運動をようやくの思いで鎮め、ドイツ国民を国民議会選挙へと向かわせた。
当時は、まだ当然のことながら憲法が出来上がっていなかったっため、
プロイス内務大臣の署名による条例によって行われた選挙である。
選挙権は20歳以上の男女ともに与えられ、比例代表制によって行われた。
以下は、その結果である(議員総数421)。
社会民主党 163(穏健社会主義)
独立社会民主党 22(急進社会主義)
国家人民党 42(君主制支持)
人民党 21
中央党 88(選挙後、バイエルン選出議員が離脱)
民主党 75(反社会主義票を吸収して躍進)
諸派 10
選挙では、マックス・ウェーバー(社会学者)も、
プロイスも名簿にすら載ることが出来なかった。
ともかく、休戦以来臨時にとはいえ政権を牽引してきた両社会主義政党は
国民議会で過半数を得られず、さらに各地からの反中央集権の動きを察して、
憲法草案は大幅な路線変更を余儀なくされた。
国民議会に提出された最終案とも言うべき「臨時憲法」案では、
ドイツ国憲法の決定権を国民議会に与えたものの、
それ以外の立法行為については各州の代表委員会の同意を要するとした。
また、国家行政機関としての政府と大統領制を定めた。
プロイスは、完全なる中央集権を断念せざるを得なかった。
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