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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-⑬

<12>ミュンヘン一揆

前回に続いてヒトラーの話を。

以前の選挙結果を見てもわかるように、ヒトラー率いるナチ党は、

国民議会にタダの1議席も持ってはいない。

その活動もバイエルン地方に限定されたものであった。

しかし、中央政府はそんなナチを恐れていた。

理由は、まず急速な党員の増加であった。

ヒトラーが党首になった1921年からわずか2年で党員は、

15000人ほどから50000人まで膨れ上がっていた。

そして、ナチは党の私兵集団である突撃隊(SA)もまた恐怖の対象であった。

たとえば、1921年11月のミュンヘンにおける共産党との衝突がある。

極右勢力のナチが左翼の共産党を目の敵にするのは当然のことだが、

こういった過激な手段をその後もとっていくことになる。

そして、それをバイエルン州も容認していた。

もともと、共和国政府に対して反抗的な地方で、バイエルン人民党のような

地方政党を作って国民議会に独自の地歩を築くほどであった。

それに対し中央政府は、ナチの機関紙発行を停止させるなどの手段をとって

牽制してきた。

押さえつけられたナチは、ついにその初期において最大規模のクーデターといえる

いわゆる「ミュンヘン一揆」を起こす。

これは、その前年にイタリアのムッソリーニ(ファシスト党)の起こした

「ローマ進軍」に倣って行われたものである。

1923年11月8日、ミュンヘンのビアホールに集まった右翼政治家を、

ヒトラー率いるSAが包囲。ヒトラーの計画する「国民革命」案に強引に同意させた。

「国民革命」とは、軍に顔が利くルーテンドルフを担ぎ出して、

軍とともに共和国政府を打倒しようとする軍事クーデターの計画である。

しかし、その夜のうちに包囲網を抜け出した右翼政治家は国防軍に駆け込み、

国防軍は一揆鎮圧を命令、翌朝の両軍の衝突をもって鎮圧されてしまう。

ヒトラーはその場を何とか抜け出すものの、2日後に逮捕され裁判にかけられてしまう。

結果ヒトラーは、国家反逆罪で禁固5年の実刑判決(1924年4月)を受け、

ナチ党は路線変更を余儀なくされる(ヒトラーは同年末に釈放される)。

結論から言えば、計画がずさんであり、「ローマ進軍」のように

軍の協力を得ずに行ったことが失敗の大きな原因と言えよう。

しかしこの失敗は、ヒトラーにとって大きな教訓となり

後のドイツ支配において大きな糧となることになる。

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