「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-⑧
<7>終戦、そしてヴェルサイユ条約
ここまではドイツ国内の変化について書いてきたが、
対外的にドイツはいまだ同盟国軍として交戦中であり、
その帰趨は新政府に委ねられるところとなった。
ドイツのUボートによるいわゆる「無制限潜水艦戦」によって、
この欧州大戦にアメリカが連合国軍側とともに戦うようになって、
戦況は大きく連合国軍に傾いた。
ドイツは、内外の状況を考慮して早々に終戦に向けた交渉のテーブルを
設ける必要に迫られていた。
1919年5月7日、終戦に向けた最初の交渉がヴェルサイユで始まった。
しかし、交渉を任されたブロックドルフ伯の態度が悪かった。
彼は連合国側から示された草案の特に内容のひどい部分を選んで読み上げた。
ドイツが特に抵抗したのが戦争責任のことである。
草案では、この戦争の全責任をドイツ1国に押し付けるものと解釈していたからである。
しかし、その点では結局連合国に押し切られ賠償金を払わせられることになる。
また、領土問題でも紛糾した。
ドイツ領土は、寸断され、あるいは削り取られることを余儀なくされた。
5月23日、一度この内容を本国に持ち帰ったのだが、
政府はこれを拒絶しようとしていた。それほど屈辱的な内容だったのだ。
しかし、連合国が仕掛けてきた。
態度を保留するドイツに対し6月16日最終案を提出、当初は5日以内の返答を要求した。
その後それは7日に変更されたが、
応じなければおそらく連合国軍の再侵攻が始まることは明白であった。
シャイデマン首相は、条約締結反対派であったが、閣内をまとめ上げることが出来ず、
6月20日内閣を総辞職した。責任を放棄したのである。
エーベルト大統領は、急ぎ新内閣を組閣する必要に迫られた。
正直、本人も逃げ出したかったところであったろう。
新内閣は、社会民主党と中央党で組閣され、首相にはヘルマン・ミュラーが選任された。
6月22日、新内閣の下で国民議会は召集されたが、右派を中心に署名反対に流れ、
議会は賛否二分された。
しかし、そのことがドイツにとって何の解決をもたらさないことも皆承知していた。
議案は、国民議会が署名に同意するか否かを持って争われ、
結果は署名賛成237、同反対138をもって可決。
しかし、翌日その内容が無条件降伏であることを知ると、議会は再び紛糾。
それを与党はようやくの思いでなだめ、期限切れ僅か80分前、
条約の無条件受諾を電報にて伝えた。
6月28日、ヴェルサイユ宮殿にて戦勝終結の署名が行われ、
ここに、史上初の国民国家間戦争第1次世界大戦は終結した。
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