「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-(23)
<22>ヒトラー、大統領選に立候補す
ナチスが第2党になったことで、
内外ともこの勢力を無視できなくなったという話をこれまでしてきた。
ヒンデンブルク大統領は、1931年に初めてヒトラーと会見したし、
政府は国防相の口からナチス党員の国防軍入隊を認めた。
これには、軍部がもともと社会民主党を嫌っていたせいであり、
今までこういう動きが表に出なかったのはひとえに、
社会民主党に対抗しうる議会内勢力が現れなかったからである。
議会運営の上では、社会民主党の数の力を無視することはできず、
それゆえ仕方なく彼らと組んでいた面がある。
そこに、軍部にとって都合の良い思想を持った対抗馬が現れたわけである。
しかし、ヒトラーは人の風下に立つような男ではなかった。
1932年、ヒンデンブルク大統領の任期満了に伴う大統領選が行われる。
既に84歳になっていたヒンデンブルクは、本来なら引退するべきであったし、
実際彼も選挙にその身を任せようと考えていた。
しかし、ブリューニングら周辺の者の考えは違っていた。
ヒトラーが立候補すると想定して、彼に対抗しうる力を持つヒンデンブルクの後継者は、
少なくともヒンデンブルクの周辺には存在しなかった。
つまり、彼らとしては老齢のヒンデンブルクに全てを託すしかなかったのだ。
まずブリューニングは、憲法を改正して大統領の任期を延長しようとした。
しかし、そのためには国民議会において2/3以上の賛成を得ないといけない。
それには第2党のナチスと国家人民党の賛成を取り付けなければならなかった。
しかし、もちろんそれに失敗した。
ナチスにいたっては、この気に乗じて政府批判をさらに強めて
来るべき決戦に向けて着々と刃を研いでいるように思われた。
しかし、実際にはヒトラー自身今回立候補しても勝てないであろうと予想していた。
彼を協力に推したのはゲッペルスであった。
ゲッペルスは、支持者を大いに煽動してヒトラーを候補に祭り上げた。
そのことにヒトラーも悪い気はせず、彼もついに臍を固めた。
一方で、ヒトラー台頭に危機感を抱くベルリン市長の呼びかけによって、
超党派の委員会が結成され、委員会はヒンデンブルク擁立に動いた。
ヒンデンブルクもそれを受け入れざるを得なかった。
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