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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-(25)

<24>ナチス、負けてなお強し

ヒトラーは、大統領選挙に敗北した。

しかし、議会における強勢が揺らぐことは無い。

よって、政府としてはその活動を牽制する必要がある。

選挙の結果が出て間もない1932年4月13日、政府から緊急令が発せられる。

その内容とは、「突撃隊(SA)及び親衛隊(SS)の即時禁止」であった。

彼らの跳梁は、他の政党にとって脅威以外の何者でもなかった。

彼らはナチスの私兵であり、他党の選挙活動の防止や、

果てはテロリストにさえなるからである。

ヒトラーもこれには従った。「ミュンヘン一揆」以来、

過激すぎる抵抗を避ける傾向にあったから当然のことといえる。

とはいえ、発令した時期が悪かった。

一部新聞では「これは社会民主党が大統領再選に協力してくれた見返りである」

と書きたてたし、ヒンデンブルク自身もそれに危機感を抱いていた。

さらに悪いことに、それ以降各州の選挙においてナチスが次々と勝利していくのである。

国民感情は、間違いなくナチスに傾いていた。

5月30日、大統領との決裂が決定的となり、そして民衆の心を得られないことを悟った

ブリューニング内閣は総辞職。

6月1日にはパーペン率いる新内閣が組閣された。

この内閣は全ての党派から白眼視されていた。

唯一ナチスだけが裏取引をしていたために攻撃を控えていた。

その裏取引とは、SA及びSSの禁止解除と国会解散の確約であった。

事実、組閣の翌日6月2日、国会は解散され、その約束は早々と達成されることとなる。

(SA及びSSの禁止解除も、6月14日に行われる)

国民議会議員選挙には、当然のことながらSA及びSSが再び跳梁することとなるのだが、

それらはまた次回に。いよいよ次回はナチスが議会第1党へと上り詰める話を。

P.S.

 前回までの資料は、以前も使いました「ワイマル共和国史」(ペリカン社)の

 第3巻、及び第4巻を使いました。

 今回からは、「ヴァイマール共和国史」(水声社)を用いております。

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