「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-(28)
<27>国会中心主義の陥穽
まずは、1932年11月の国民議会議員選挙の結果から。
比較対象は、同年7月の結果です。
社会民主党 133→121
中央党 70→ 70
民主党 4→ 2
国家人民党 37→ 52
ドイツ人民党 7→ 11
共産党 89→100
バイエルン人民党 22→ 20
ナチス 230→196
この選挙は、まず投票率が低かった。
年に2度の選挙ということもあり、もはや国民もうんざりしていた。
ナチスは、支持基盤が大きく揺らいだことなどもあって
第1党を維持したものの30議席以上も減らしてしまう。
また、穏健社会主義政党の社会民主党から、
急進社会主義の共産党へ票が移った。
現政権への失望は極に達していたといってもいい。
もはや、今まで通りの連立政権では多数派の確保は不可能であり、
議会運営の観点からナチス、中央党、共産党のいずれかを
政権に引き込まざるを得ない状況であった。
しかし、パーペン首相はそのいずれも拒否したため、
ヒンデンブルク大統領は側近のシュライヒャーを介してパーペンに因果を含めて
首相を変えようと考えた。
目標は、もちろん前選挙後にも候補に上がっていたヒトラーであった。
しかし、ヒトラーは条件をつけた。
以前もこの中で書いた「全権委任法」に大統領も同意するように通告したのだ。
ヒトラーは、政権の弱みに付け込んで全権の掌握を目指したのだ。
ヒンデンブルクも、さすがにそこまでの権限をヒトラーに与えるわけにはいなかった。
その後、中央党にも連立政権参加を呼びかけたがそれにも失敗し、
パーペンを再び首相の座に据えるわけにもいかず、八方塞がりになった。
やむなくヒンデンブルクは、側近よりシュライヒャーを首相に選んで
新内閣を組閣させざるをえなかった。
少数与党の議席がさらに先細るなか、
国民の失望は極右のナチスと極左の共産党、保守派の中央党という、
強力な野党3党に期待をかけていた。
この時点で、ワイマール共和国は有名無実となっていたのかもしれない。
おそらく、ナチスが止めを刺すまでも無く、
「ドイツ社会主義人民共和国」とか、中央党首班による新生「ドイツ共和国」が
ワイマール体勢の屍を越えて生まれていたのだろうから・・・。
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