今も昔も、日本人の周りは神だらけ 日本人の自然観(昭和10年10月 『東洋思潮』より)-④
~日本人の精神生活~
(1)宗教
①一神教と多神教
「単調で荒涼な砂漠の国には一神教が生まれる」と、
誰かは言った
→多彩にして変幻極まりない自然を持つ日本では、
逆に八百万の神が生まれ崇拝され続けてきたのは当然
→山も川も木も、一つ一つが神であり人
→それを崇め、それに従うことによってのみ生活、生命が保証される
→また、地形の影響で住民の定住性や土着性が決定された結果は、
いたるところの集落に鎮守の社を建てさせることになった
②仏教の浸透
仏教が土着し発育を持続した要因
=教義の含有するいろいろの因子が日本の風土に適応したため
=仏教の根底にある無常観には、日本人のおのずからな自然観と
相調和するところがある
→地震や風土の災禍が頻繁で、しかも全く予想し難い国土に住むものにとっては、
天然の無常は遠い祖先からの遺伝的記憶となって、五臓六腑に染み渡っている
※常に自然との対峙を余儀なくされる日本では、
ある意味多神教になるのが必然と言えるかもしれない。
それを土着化傾向の強さがさらに補強して、
集落ごとに神が生まれた結果、「八百万の神」が生まれたと言えるかもしれない。
それをある程度許容できる仏教が日本文化には組み込まれ、
許容できないキリスト教は簡単に浸透しなかった違いかもしれない。
(2)科学
①日本以外の国
・雨のない砂漠の国では天文学は発達しやすい
・自然の恵みが乏しい代わりに自然の暴威が緩やかな国では、
自然を制御しようとする欲望が起こりやすい
②日本
・多雨の国である日本では、天文観測を常に行えるとは言い難く、
天文学の発達が妨げられた
・全く予想し難い地震や台風に鞭打たれ続けている日本人は、
それらの現象の原因を探求するよりも、それらの災害を軽減し回避する
具体的方策の研究にその知恵を傾けた
→おそらく日本の自然は、西洋流の分析的科学が生まれるためには、
あまりに多彩で、あまりに無常であったかもしれない
→日本人の頭脳が低級なためではなく、環境のせいであって、
事実日本古来の知恵を無視した科学が大恥をかいた例も、数えきれないほどある
※自然をくみしやすい相手と見るかそうでないものと見るかは、
確かに大きな違いかも知れない。
西洋科学の粋を結集しても、地震を起こすことはできても、
地震の到来を予想し、それを抑え込む方法はいまだ見つけられていない。
優劣というのは、しょせん相対的なものである。
地震の経験値などは、日本の方が圧倒的に積んでいるわけだし、
今回のことでもわかったことだが地震研究は国防に直結するとも言える。
もちろん行政の側にも聞く耳を持つことが必要なのだが…。
(3)文学、諸芸術
①記紀
・『神話と地球物理学』という別著に詳しい
②おとぎ話や伝説、口碑(=口伝)
・日本の自然とその対人交渉の特異性を暗示しないものはない
③源氏物語や枕草子
・日本のあらゆる相貌を指摘する際に参考すべき、一種の目録書きが包蔵されている
④短歌、俳句
・短歌や俳句で扱う自然は、科学者が扱うような人間から切り離した
自然とは全く趣を異にしたもの
・単に普通にいわゆる背景として他所から借りてきて添加したものでもない
・人は自然に同化し、自然は人間に消化され、
人と自然が完全な全機的(≒普遍的)な有機体として生き動くときに
おのずから発する発音のようなもの
・全機的世界の諸断面の具象性を決定するに必要な座標としての時の指定と
同時にまた空間の標示として役立つものが、いわゆる「季題』
・『枕詞』には、それ自体が天然の景物を意味するような言葉が非常に多く、
中には季題となるものも少なくない
→それらが表面上は単なる音韻的な連鎖として用いられ、
悪くいえば単なる言葉の遊戯であるかのごとき感を呈しているにもかかわらず、
実際の効果においては単なる言葉遊びの範疇に収まらないことは、
多くの日本人の疑わないところ
→寺田的には、ある特殊な雰囲気を呼び出すための呪文のような効果を示すもの
→日本人のような特異な自然観の所有者に対してのみ有効
・俳諧(=俳諧連歌)から発句(=俳句)への変化が、日本固有の自然観を
広く一般民衆の間に伝播するという効果を生じた
→俳句を理解したフランス人などに言わせると、「日本人は皆詩人である」という
→俳句の詩形が短く、誰でも真似しやすいため
&そういう詩形を可能ならしめる重大な原理が、
まさに日本人の自然観の特異性の中に存し、その上に立脚しているという
根本的な事実があり、それが国民の間に染み渡っているという必須条件が
立派に満足されていう事実を忘れてはいけない
※このあたりは、俳人の一面も持つ寺田だけのことはある。
ワシみたいな素人が突っ込んだりする隙などございませんな。
⑤絵画
・仏教的漢詩的な輸入要素、和歌的なもの、俳句的なものとの
三角形的な対立が認められる
狩野派=仏教的漢詩的
土佐派=和歌的
四条派=俳句的
・いずれの流派にも言えることは、日本人が輸入しまた想像しつつ発達させた絵画は、
その対象が人間であっても自然であっても、それは決して画家の主観と対立した
客観のそれではなく、両者の結合し交錯した全機的な世界自身の表現
・西洋にそれを気付かせたのは、浮世絵との偶然の出会いから
⑥音楽
・純粋な器楽に近い三曲(注4)も、その表現せんとするものがしばしば自然界の音である
・楽器の妙音を形容するために、自然の物音がしばしば比較に用いられる
・以上より、日本人は音を通じても自然と同化することを意図しているように思われる
(注4)三曲=三曲合奏
近世邦楽の三種の楽器(筝(=琴)、三味線、尺八(もしくは胡弓))による合奏
« あるがままを、味わい、楽しむ。それが日本人 日本人の自然観(昭和10年10月 『東洋思潮』より)-③ | トップページ | 同質性と異質性が同居する国、日本 日本人の自然観(昭和10年10月 『東洋思潮』より)-⑤ »
「寺田寅彦で読む 『地震と日本人』」カテゴリの記事
- 「寺田寅彦で読む 『地震と日本人』」 第2期目次(2011.07.07)
- この国に生きる、ということ⑧ 『天災と国防』と日本が次に進むために(2011.07.07)
- この国に生きる、ということ⑦ 『津波と人間』とニュースな事例(2011.07.07)
- この国に生きる、ということ⑥ 修学旅行の意義を問う(2011.07.07)
- この国に生きる、ということ⑤ 遺構編(2011.06.16)
« あるがままを、味わい、楽しむ。それが日本人 日本人の自然観(昭和10年10月 『東洋思潮』より)-③ | トップページ | 同質性と異質性が同居する国、日本 日本人の自然観(昭和10年10月 『東洋思潮』より)-⑤ »
コメント