現在の辛気臭い雰囲気を2度と生み出さないために… 時事雑感(昭和6年1月 『中央公論』より)-③
今回の話は、『地震と国防』のたたき台というか、ベースとなる話。
実際に起った地震の被害状況を検分しつつ、
災害とどう向き合っていくか、という話です。
『地震と国防』とはまた違う、当時の被災者の状況なんかも書いてある、
興味深い内容となっております。
(3)地震国防
1930(昭和5)年11月26日 伊豆地方大地震(マグニチュード7.3 直下型地震)
死者行方不明者数計 331名
家屋全壊 4317戸
寺田は4日目に日帰りで三島町(震度6)へ見学に出かけた
・三島駅を降りてすぐ見た印象は、
瓦が少し落ちた家がある程度でたいした損害は無いように見えた
・町に入って行ってもいっこうに強震があったらしい様子が無いので不審に思った
・突然先端倒壊家屋の一群にぶつかる
・町の地図を買って倒壊家屋と無事な家の分布を記して歩くと、
頑丈そうな家がつぶれている隣にもともとボロ家みたいのが平気でいたり、
またその逆の事例があったりとまちまち。
・倒壊家屋は、蛇のようにうねった線状にある区域に限定
→自身の割れ目か、昔の川床か、その辺は精査しなければわからない
※当時は、まだ「活断層」という考え方がなかったんでしょうね。
そういう意味では、まだ地震学が未成熟だったわけで…。
それにしても、けっこうはっきり出るもんなんですね、断層って…。
軍縮問題(注1)が一時国内の耳目を聳動(≒驚かす)
(注1)陸海軍の軍縮状況
陸軍:山梨軍縮=1922年8月、1923年4月
宇垣軍縮=1925年5月
海軍:ワシントン海軍軍縮条約=1922年2月
ジュネーブ海軍軍縮条約=1927年8月
→陸海軍当局者が仮想敵国の襲来を予想して憂慮するのはもっとも
→しかるに、仮想敵国に対するのと同様に、地震というおそるべき強敵に対する国防は、
あまりに手薄すぎるのでは?
→戦争は会議でいくらか延期されるかもしれないが、地震とは相談できない
・大正12年の大震災(=関東大震災)=帝都と関東地方に限定
・今度の(=伊豆地方大地震)=箱根から伊豆にかけての一帯の地に限定
→いつでもこの程度ですむかと言うと、そうとは限らない
・安政元年11月4日~6日に渡る地震には、東海、東山、北陸、山陽、山陰、南海、
西海諸道ことごとく振動(注2)
=災害地帯はあるいは続きあるいは断えてはまた続いてこれらの諸道に分布
=いたるところの沿岸には恐ろしい津波が押し寄せ、地震、津波、火災による死者は
三千数百、家屋損失は数万を数えた
(注2)安政地震
日付(新暦)的には安政南海(11月4日)、安政東海(11月5日)を指すが、
前後には伊賀上野(同年6月15日)、安政江戸(同年10月2日)、
飛騨(翌年2月1日)もある
東海、東山、…=畿内(現在の近畿地方)と北海道、沖縄以外の全国を指すが、
この場合ざっくり北海道と沖縄以外全部を指すと思われる
・似たようなのが宝永4年にもあった(注3)
(注3)宝永地震(&宝永噴火)
・宝永4(1707)年10月28日(新暦)に起こった、東海、南海、東南海連動型地震
・発生16時間後には山梨付近で直下型地震
・同年12月16日、富士山大噴火
・翌年2月13日、紀伊沖で大規模な余震
・宝永、安政に比べれば、関東大震災などむしろ局部的なもの
・今後、いつかまたこの大規模地震が来たとする。
そうして東京~福岡の辺りまで一度に襲われたら、我が日本はどうなるであろう
・宝永、安政の頃なら、各地の被害は各地それぞれの被害
=昔の日本は珊瑚かポリプくらげのような群生体で、
半分が死んでも半分は生きていられた
=1つの群(村)に起きたことがよそに波及しない
・今の日本は有機的な個体であるから、1/3が死んでも全体が死ぬであろう
・この恐ろしい強敵に備える軍備はどれだけあるのか、予算をどれだけ組んでいるのか、
人に尋ねてみてもよくわからない
・ただ、ごく少数の科学者たちが僅かな研究費のなか熱心に研究し、
驚くべき能率をあげている
=おそらくは、戦闘艦の巨砲1発分、陸軍兵員の1日分のたくあんの代金にも
満たないような、僅かな研究費だろう
→そのことを、世間の人はもちろん、政府のお役人も何も知らないことだろう
・今度の伊豆地震などは、地震現象の機構の根本的な研究に最も有用な資料を
多分に供給するものであろうが、いくら学者が熱心でも研究資金が乏しいので、
思う研究の万分の一もできないだろう
→おそらくこの貴重な機会はまたいつものように大部分利用されずに逃げてしまうだろう
※日本人がいまだいちばん恐れているであろう「東海、東南海、南海連動型地震」。
確かにそれが来るのが一番恐ろしいことなんでしょうが、
今回の体たらくを見て本当に恐れているのか、恐れているなりの備えを
ちゃんとしているのか、大いに疑問になったわけで…。
学者に金出さない体質はこの当時から変わらないようだし、
寺田の予言通り今回の大災害の経験も大部分は利用されずに過ぎてしまう気さえする。
恥ずかしい限りである。
・蟻の巣を突き崩すと大騒ぎが始まる。
→しばらくすると復興作業が始まる
→いつの間にか元のように立派な都市ができる
→もういっぺん突き崩してもまた同様
=蟻にはそうするより他に道が無いのだろう
・人間も何度同じ災害に会っても、決して利口にならないものであることは、
歴史が証明している
→東京市民と江戸町人と比べると、少なくとも家事に対してはむしろ今の方が
だいぶ退歩している(注4)
(注4)江戸時代は度重なる大火事の反省から、
火除地(延焼を防ぐために設けられた空き地)や、
広小路(延焼を防ぐために道幅を広く取られた街路)を設けていたが、
そうする先から江戸に多くの人が流入していた。
結果としてスプロール現象(無秩序な街区の拡大や区画割)が起き、
火除地は公園化したり建物が建てられたりし、
広小路の路肩には屋台が立ち並ぶようになるなど、
延焼防止措置が有名無実化して行ったわけだが…。
そういう事だけじゃ無い気もするので、別の機会に詳しく触れたい。
→そうして昔と同等以上の愚を繰り返している
・昔の為政者の中には、真面目に100年後のことを心配した者もいたらしい
→そういう時代に、もし地震学が現在の程度ぐらいまで進んでいたとしたら、
その子孫たる現在の我々は地震に対してもう少し安全だっただろう
→今の世で、100年後の心配をする者があるとしたら、
おそらくは地震学者ぐらいのものだろう
→国民自身も今のようなスピード時代では、
到底100年後の子孫の安否まで考える暇がなさそう
→しかし、そのいわゆる「100年後」の期限が「いつからの100年」であるか
=事によってはもう3年、2年、1年、あるいは数日、数時間後に「その時」は
迫っていないと誰が保証できるであろうか
・昔、中国に妙な苦労性の男がいて、「天が落ちて来る」と言ってたいそう心配し、
とうとう神経衰弱になったという話を聞いた(「杞憂」の故事)
→この話は、事によってはちょうど自分(寺田)のような人間の悪口を言うために
作られたのかも…
→この話をして笑う人の真意は、「天が落ちない」と言うのではなく、
「天は落ちるかもしれないが、しかしいつ落ちるかがわからないから」と言うであろう
※今年、来年のことすらままならない現代の政治家や、
その年その年の予算取りに汲々としている官僚に
「国家100年の大計」を望むのは間違ってるのかもしれない。
そして、小さな利益ばかりを望んで、そういう政治家を育てて来なかった我々民衆にも、
その責任の一端はある。
大いに未来を語れる政治家を、政治環境を、
我々は作っていく必要があるのかもしれない。
・三島の町を歩いていると歩いていた兵士が、
「おもしろいな。ウム、こりゃあおもしろいな」としきりに感心してた
→これを決して悪意に解釈してはならない
=この「おもしろいな」があるからこそ、関東大震災から帝都は復興し、
円タク(注5)の洪水、ジャズ、レビュー(注6)の嵐が起こったのかもしれない
・三島の復旧工事の早さにも驚いた
→この様子なら半年ほどで災害の痕跡はきれいに消えてるのでは、という気もした
→もっと南の方の、被害のひどかった町村(注7)では、おそらくそうはいかないだろうが…
・三島神社の近くで、震災にあった小さな中華料理店から、
強大な蓄音機演奏の音波が流れ出しているのを聞いた。
→音の正体は、浅草の盛り場の光景を描いた「音画」(注8)らしい
=コルネット、クラリネットのジンタ音楽(注9)に混じって
花やしきを案内する声が陽気に聞こえていた
→警備の巡査、兵士、新聞社、保険会社、宗教団体などの慰問隊の自動車、
さらには何の目的とも知れず流れ込むいろいろの人の行きかいを、
美しい小春日が照らし出して何かお祭りのような気さえする
=今回の地震では、震源近くの都市の被害も軽微であったため、
救護も比較的迅速に行き届くであろう
→しかしもし宝永、安政クラスの大規模地震が主要の大都市を
一撫でになぎ倒す日がきたら、我らの愛する日本はどうなるか
=小春の日光はこれほどうららかには国土蒼生(=国民)を照らさないだろう
→軍縮国防では10を6にするか7にするかが問題だった
→そもそも地震国防は事実上ゼロ
=そうして為政者の間では誰もこれを問題にする人がいない
=戦争はしたくなければしなくても済むかも知れないが、
地震はよしてくれと言っても待ってはくれない
=地震学者だけが口を酸っぱくして説いてみても、救世軍(注10)の太鼓ほどの反響もない
(注5)1円タクシーの略。大正末期~昭和初期にかけてあった、
料金1円均一で走ったタクシーのこと
(注6)踊りと歌とを中心にコントを組み合わせ、多彩な演出と豪華な装置とを伴うショー。
第1次世界大戦後に世界各国で流行した
(注7)天城湯ヶ島、中伊豆(以上現伊豆市)、韮山(現伊豆の国町)辺りのことと思われる
(注8)現代の映画と同様の映像と音声を一致させて映写する映画。
すなわち「トーキー」のこと
(注9)大正の頃、サーカスや映画館の客寄せや広告宣伝などに、
通俗的な楽曲を演奏した、少人数の吹奏楽隊とその吹奏楽の俗称
(注10)軍隊的組織のもとに民衆伝道や社会事業を行う、プロテスタントの一派
※冒頭の話は、動機は不純でも興味を持つことが必要、っていうことだと思う。
次の話は、気持ちを盛り上げる娯楽はやっぱり必要だ、っていう話。
そしてその直後の話は、これまた身につまされるというか、
今の日本の状況を予見したような話。
そうなることが分かっているからこそ、
まじめに地震対策をしろと、口を酸っぱくして言っていたんだろうが、
政治にしろ民衆にしろ、聞き分けのなさは相変わらずのようで…。
戦争と違って、地震には人智など及びもしない、というメッセージを、
世界に発信できるのは日本だけであろう。
そういう意味では、日本はもっと世界平和に貢献できる国だと思うのだが…。
・三島からの帰りの汽車の中から夕日の富士を仰ぐ
→富士山噴火は近いところで、1511、1560、1700~1708、1792にあった
→今後いつまた活動を始めるか、それとももう永久に休息するか、神様にもわかるまい
→しかし、こういう活動期があった富士山が、20世紀のいついつにまた活動を始めないと
保証しうる学者もいないだろう
→川崎駅を通った時、ふと先日の「煙突男」のことを思い出した
=自分もどこかの煙突の上に登って「地震国難来」を絶叫して、地震研究資金の
はした金でも募集したいような気持ちになったが、多分誰も相手してくれそうにない
=政治家も実業家も民衆も、10年後の日本のことさえ問題にしてくれない
=天下の奇人で、金をたくさん持っていそうで、100年後の日本を思う人でも
探して歩くほかない
→汽車は東京に入って、高架線にかかると美しい光の海が眼下に波立っている
→7年前の(関東大震災による)すさまじい焼け野原も
「100年後」の恐ろしい荒野も知らず顔に、昭和5年の今日の夜の都を享楽している
・(昭和6年)5月に入ってから、防火演習や防空演習などが賑々しく行われる
→それ自体はけっこうなことだが、それなら火事や空軍より数百倍恐ろしいはずの、
未来の全日本的地震、5、6大都市を一薙ぎにするかも知れない大規模地震に対する
防備の予行演習をやるような噂はさっぱり聞かない
=愚かなる我ら杞人の後裔(=寺田)から見れば、
秘かに垣根の外に忍び寄る虎や獅子の大群を忘れて
アブラムシやネズミを追いかけ回し、
はたきやすりこぎを振り回してから騒ぎしているような気がするのかもしれない
=これが杞人の憂いである
※日本は災害に関して言えば、「杞憂」ということは無いかも知れない。
昔から地震や噴火に悩まされたこの国が、
よその国と同じくというわけにはどう考えても行かない、
と開き直ることも必要なのでは…。
むしろ違いを打ち出す勇気が、この国には必要なのではないだろうか。
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