« 日ごろの心の準備が防災の秘訣! 火事教育(昭和8年1月) | トップページ | 「新・中央競馬予想戦記」今週の反省 2011-(13) »

神話のすべてがフィクションとは限らない? 神話と地球物理学(昭和8年8月 『文学』より)

今回の話は、理系脳の寺田が神話を読み解く、というお話。
とはいえ、そこは地震学者。現代よくなされている解釈とはまた違った、
日本の国土の特徴を踏まえたものとなっております。
やや無理やりなところもありますが、まぁ地震学者の言うことだと思ってあきらめてください。
なお、記紀の文の訳に関しては、文芸春秋社刊の『口語訳 古事記[完全版]』を
もとにしております。

われわれのように地球物理学関係の研究に従事している者が、国々の神話を読む場合
=一番気のつくことは、それらの説話の中にその国々の気候風土の特徴が
 濃厚に印銘されており、浸潤していること
(1)スカンディナヴィアの神話
 ・温暖な国の住民には到底思いつかれそうにもないような、驚くべき氷や雪の現象、
  あるいはそれを人格化し象徴化したと思われるような描写が織り込まれている
(2)日本の神話
 ・この国が島国であること
 ・日本海海岸に目立たなくて、太平洋岸に顕著に潮汐の現象を表徴している
 ・島が生まれる
  →地球物理学的に解釈すると、海底火山の噴出、あるいは地震による
   海底の隆起によって海中に島が現れ、あるいは暗礁が露出する現象、
   あるいはまた河口における三角州の出現などを連想させる
 ・速須佐之男命に関する記事(神代編 其の二)
  =火山現象を如実に連想させるものが多い
   (例1)「その泣きたもうさまは、青山を枯山なす泣き枯らし、
       河海はことごとに泣き乾しき」
      =(訳)その泣くさまはと言うと、青々とした山は枯れ山のごとくごとくに
          泣き枯らしてしまい、河や海の水はスサノオの涙となって
          ことごく泣き乾してしまうほどだった
      =噴火のために草木が枯死し、河や海が降灰のために埋められたことを
       連想させる
      =噴火を地神の慟哭と見るのは比喩として適切
   (例2)「すなわち天にまい上ります時に、山川ことごとにとよみ、国土皆震りき」
      =(訳)すぐさま天に参り上ります時に、山や川はあまねく轟わたり、
          国や地はことごとくに震れたのだ
      =普通の地震よりも、むしろ火山性地震を思わせる
   (例3)「勝ちさびに天照大神の営田の畔離ち溝埋め、また大嘗きこしめす殿に
       屎まり散らしき」
      =(訳)勝ちにまかせてアマテラスの営んでいた田の畔を壊し、その溝を埋め、
          またアマテラスが大嘗祭の祭殿に入って糞をし、それを撒き散らした。
      =噴火による降砂、降灰の災害を暗示するようにも見える
   (例4)「その服屋の頂をうがちて、天の斑馬を逆剥ぎに剥ぎて堕し入るる時に…」
      =(訳)その忌服屋(注1)の棟に穴を空け、天の斑馬を逆剥ぎ(注2)に剥いで、
          その斑馬の皮を穴から落とし入れた。
      =火口から噴出された石塊が屋をうがって人を殺したことを暗示
   (例5)「すなわち高天原皆暗く、葦原中国ことごとに闇し」
      =(訳)高天原は隅々まで真っ暗闇になってしまい、葦原中つ国のことごとく
          闇に覆われてしまった
      =噴煙降灰による天地晦冥の状を思わせる
   (例6)「ここに万の神の声は、狭蠅なす皆涌き」
      =(訳)全ての悪しき神々の声は、五月蠅のごとく(注3)隅々まで満ち溢れ…
      =火山鳴動のものすごい心持ちの形容にふさわしい
   例4~例6に関しては、日蝕とする説もあったようであるが、
   日蝕のような短時間の暗黒状態としては、引用したもの以外の記事との調和が
   取れない
   →神々が鏡や玉を作ったりしてあらゆる方策を講じるという顛末を叙した記事は、
    ともかくも相当な長い時間の経過を暗示するから
   (例7)天手力男命が引き開けた岩戸を取って投げた。その岩が虚空はるかに
      消し飛んで、それが現在の戸隠山になった、という話(記紀には無い)
      =火山爆発という現象を夢にも知らない人の国には到底成立しにくい話
 (注1)忌服屋=神聖な機織り小屋
 (注2)逆剥ぎ=通常の皮剥ぎとは反対の皮の剥き方で、タブーとされる剥き方
 (注3)五月蠅のごとく=たくさんのハエが梅雨時に充満してまがまがしい音を立てるさま

誤解を防ぐために一言しておかなければならないのは、
ここで言おうとしていることは、以上の神話が全部地球物理学的現象を
人格化した記述であるという意味では決してない。
神々の間に起こったいろいろな事件や葛藤の描写に最もふさわしいものとして、
これらの自然現象の種々相が採用されたものと解釈する方が穏当と思われる
※言わんとしてることは解りますし、第1期で取り上げた『日本人の自然観』との
 関連で言えば、むしろそう考えるのも当然ということかもしれない
 (今作が『日本人の自然観』のたたき台になっているとも言えるのだが…)。
 ただ、自身でちゃんとエクスキューズしているわけだし、
 天皇が神格化されていた当時ですら記紀にいくつもの解釈があったわけだから、
 地震学者という立場での解釈という意味ではこれで問題なかったのだろう。

   (例8)高志(注4)の八岐大蛇(神代編 其の三)
      =火山から噴き出す溶岩流の光景を連想
    ・「年ごとに来て喫うなる」
     =(訳)年ごとにやってきて食ってしまいました
     =噴火の間歇性を暗示
    ・「それが目は酸漿なして」
     =(訳)その目はアカカガチ(注5)のごとく赤く燃えて
     =溶岩流の末端の裂罅(注6)から内部の灼熱部が隠見する状況の記述に
      ふさわしい
    ・「身一つに頭八つ尾八つあり」
     =(訳)体1つに8つの頭と8つの尾があります
     =溶岩流が山の谷や沢を求めて合流あるいは分流する様を暗示
    ・「またその身に蘿または檜榲生い」
     =(訳)その体にはコケやヒノキやスギが生え…
     =溶岩流の表面の峨々たる(注7)起伏の形容とも見られなくはない
    ・「その長さ谿八谷峡八尾をわたりて」
     =(訳)その長さは、谷を8つ、山の尾根を8つもわたるほどに大きく…
     =そのままにして解釈不要
    ・「その腹をみれば、ことごとに常に血爛れたりとまおす」
     =(訳)その腹を見ると、あちこち爛れていつも血を垂らしています
     =側面の烈罅からうかがわれる内部の灼熱状態を、示唆的にそう言ったものと
      考えられなくもない
    ・「八つの門」にそれぞれの「酒船を置きて」
     =現在でも各地方の沢の下端によくあるような貯水池を連想
     =溶岩流がそれをめがけて沢に沿って降りてくるのは、
      あたかも大蛇が酒甕を狙ってくるようにも見られる
   (例9)八十神が大穴牟遅を欺いて、赤猪だと言って真っ赤に焼けた大石を
      山腹に転落させる話(神代編 其の三)
      =火山から噴出された灼熱した大石塊が急斜面を転落する光景を連想
   (例10)大国主命が海岸に立って憂慮しておられた時に「海を光して依り来る神あり」
       (神代編 其の四)
      =電光、あるいはまたノクチルカ(注8)のような天然現象ではない夜光虫を連想
      =また極めて稀に日本海沿岸でも見られるオーロラの現象をも暗示
   (例11)神々が陸地の一片を綱で「もそろもそろ」と引き寄せる話(『出雲風土記』より)
      =単に無稽な神仙譚ではなく、ウェゲナーの大陸移動説のようなもの?
      =あるいは、二つの島の中間の海が漸次に浅くなって交通が容易になった、
       というような事実があって、それがこういう神話と関連していないとも限らない
 (注4)高志=越の国のことで、北陸地方を指す
 (注5)アカカガチ=赤く熟れたホオズキの実のこと
 (注6)裂罅=『レッカ』と読む。裂け目、割れ目、ヒビ
 (注7)峨々たる=山などの険しくそびえ立つさま
 (注8)ノクチルカ=夜光虫の学名

※ヤマタノオロチに関しては、現代においても侵略神話説などもあるので、
 地震学者としての解釈と考えて読み流す。
 ただ、夜光虫に関しては富山のホタルイカの例などもあるので、解釈としては面白いし、
 単に専門分野に閉じこもってないという意味では、大いに見習いたいところではある。

神話というものの意義については、いろいろその道の学者の説があるようだ
→以上引用した若干の例によってもわかるように、我が国の神話が
 地球物理学的に見てもかなり我が国にふさわしい真実を含んだものと考えられる
=その他の人事的な説話の中にも、案外かなり多くの史実の影像が
 包含されているのでは…
→昨日の出来事に関する新聞記事が、ほとんどウソばかりである場合もある
→しかし、数千年前からの言い伝えの中に貴重な真実が含まれている場合も
 あるのでは?
=少なくとも我が国民の民族魂といったものの由来を研究する資料としては、
 万葉集などよりにさらに記紀の神話が重要な地位を占めるのでは…
※万葉集は国語の授業などで取り上げられることはあっても、記紀に関しては
 天皇制との兼ね合いなどもあって、現代においては取り上げにくい題材ではある。
 しかし、万葉集は情緒を伝えても事柄を伝えるという意味においては、
 物語としての危機に劣ることもまた確かである
 (記紀の正確性については多分に疑問の余地はあるが…)。
 少なくとも漢詩なんかやるよりは意味がある、と私も思うが…。

« 日ごろの心の準備が防災の秘訣! 火事教育(昭和8年1月) | トップページ | 「新・中央競馬予想戦記」今週の反省 2011-(13) »

寺田寅彦で読む 『地震と日本人』」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 日ごろの心の準備が防災の秘訣! 火事教育(昭和8年1月) | トップページ | 「新・中央競馬予想戦記」今週の反省 2011-(13) »

2023年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ