「木の国」日本vs「最強の人災」火災 函館の大火について(昭和9年5月 中央公論)-①
今回は、『火事教育』に続いて火事のお話です。
もっとも、後半に関してはわりと災害全般に当てはまる話なんですが…。
建材などの研究が進んだ現代において、
火災はそれほど甚大な災害とは呼べなくなりましたが、
「地震・雷・火事・親父」がまかり通ってた時代の著述ですので、
その辺りはご了承ください。
昭和9年3月21日夕方~翌朝 函館大火発生
・消失家屋:11105棟(文中では2万数千戸)
・死者:2166名
→昭和の時代に、これは相当珍しい大火
徳川時代の江戸において、大火はある意味名物
・明暦の大火(1657(明暦3)年)
=「振袖火事」という名前でも有名
・明和の大火(1772(明和9)年)
=目黒行人坂大円寺から出火し、折からの南西風に乗って芝桜田から丸の内をまず焼く
→神田、下谷、浅草と焼き続け、さらに千住まで焼き抜く
→火の支流は本郷から巣鴨に延長するものや、日本橋の目抜き通り一帯を曠野にした
=消失区域のおおよその長さは、函館大火の3倍以上
→函館大火から160年強前の話
=当時の江戸の消防機関は長い間の苦い経験で教育、訓練され、
かなり発達していただろうが、まだ科学は発達していなかった
関東大震災時の大火災は、明暦の大火に比肩しうるもの
=自身による直接の損害よりも大きいぐらい
(その原因)
・水道が止まった上に、出火箇所が多数に、しかも一時に発生して
消防機関が間に合わなかった
・東京市民が明治以来のいわゆる文明開化中毒のために、
徳川時代に多大な犠牲を払って修得した火事教育をきれいに忘れてしまい、
消防のことは警察の手にさえ任せておけばそれで永久に安心であると思い込み、
警察の方でもまたそうと信じ切っていたために、
市民の手から防火の能力を没収してしまった
・(最重要原因)ああいう地震が起こる、ということを日本人の大部分がきれいに
忘れてしまっていた
→人間がそういうふうに驚くべき忘れっぽい健忘症な存在に想像されたという、
悲しいがいかんともできない自然科学的事実に基づくもの
※函館は、横浜に続いて日本で2番目に近代水道が整備された場所です。
貿易港として多くの人々が出入りする港町でありながら水の便がもともと良くなく、
また人の出入りが多いために伝染病が流行したり、
地形的に風が強く火災の絶えない場所でもありました。
そのために水道整備が急がれましたが、この場合水道も止まってしまっております。
この大火の直後、函館市水道は第3次拡張工事に入ります。
この拡張工事では、日本で初めて地上式消火栓などの防火水道が
整備されたようです。
函館型三方式地上式消火栓という名の通り、
三方に放水口が付いているようですので、
函館に行った時は消火栓にも目を配ってみてください。
函館大火はなぜ起こったのか?
新聞の記事
=感傷をそそる情的資料は豊富でも、考察に必要な正確な物的資料は乏しい
内務省警保局発表と称する新聞記事
=だいたいの状況を知ることができる
・直接原因は、日本海からオホーツク海に駆け抜けた低気圧のしわざ
→3月21日午前6時:低気圧が日本海上にあり、そこから豊後水道を通り、
太平洋にかけて前線が伸びている
=この状況で雨が降らない場合、全国的に火事や山火事の頻度が多くなる
=この時は雨気雪気が強かったので、いずれも無事
→同日午後6時:低気圧はさらに発達しながら北上。札幌の真西の辺りに陣取る
=東北地方から北海道南部は一般に南西方向からの雪混じりの烈風が吹きつのる
(函館:秒速10余mの南南西からの烈風を記録)
=この時に、函館全市を焼き払うためにおよそ考えられる最適の地点と考えられる
最風上の谷地頭町から最初の火の手が上がった
※谷地頭は、函館山の西に位置し、立待岬の近くにある地名です。
そこから発火している状況で、南西、つまり谷地頭から見れば
函館山のすそ野沿いに風が吹いているわけです。
風下は、函館山からの夜景で見てわかる、あのくびれが伸びております。
焼失区域は、あのくびれの大半に至っており、火勢の強さ、風の強さを物語っております。
過去の大火の顛末を調べると、いずれの場合も同様な運命の呪いがある
(例1)明暦の大火
・毎日のように吹き続く北西季節風に乗じて、江戸の大部分を焼き払うには
いかにすべきか慎重に考究した結果ででもあるように、
本郷、小石川、麹町の三か所に、相次いで発火
→由井正雪の残党が放火したのだ、という流言が行われたのももっともな次第
(例2)明和の大火
・南西風に乗じて江戸を縦に焼き抜くために再好適地と考えられる目黒の一地点に、
乞食坊主の真秀が放火した
→これら江戸の火災の消失区域を調べてみると、相応な風のあった場合には
ほとんどきまって火元を「かなめ」として末広がりに、半開きの扇形に延焼
=風速の強い時ほど、概して扇形の頂角が小さくなる
(例3)享保年間のある火事
・おそらく1726(享保11)年1月12日(新暦)に起こった火事のこと
・麹町表二番町から出火。品川沖(芝海辺とするものもある)まで焼け抜けた
・消失区域は横幅の平均わずか1、2町(1町=約109m)ぐらいで、
まるで一直線の帯のような格好
→風がもっともっと強くなれば、全ての火事は本当に「吹き消される」はず
→江戸時代の大火の例を見ると、焼失区域の扇形の頂角はざっと60度~30度の程度
=明暦の大火の場合、おそらく秒速10m以上の風が吹いていたと考えられるが、
その時の頂角がだいたい函館大火の焼失地域の外郭に接して引いた
2つの直線のなす角に等しい
=そして、この頂角の二等分線の方角がほぼ発火当時の風向きと一致
=この日この火元から発した火によって必然的に焼かれるべき扇形の上に、
あたかも切ってはめたかのように函館全市が横たわっていた
※最悪の事態というのは案外予期せず起こったりするわけで、
今回の震災もそういう類と言えなくもない。
もっとも、江戸時代の場合単純に研究不足と言えるわけだが、
今回の場合それでは済まされないはずであるのに、
「想定外」が言い訳としてまかり通っている。要するに想定してなかっただけじゃん。
3月22日午前6時、低気圧の中心はオホーツク海に進出。樺太の東に位置していた。
=東北地方から道南はいずれもほぼ真西の風に変わっていた
=つまり、発火後から風向きは南南西からの西向きへと回転して行ったと考えられる
→そのせいで、もともとのままなら停車場付近(=現JR函館駅)を右翼の限界として
海に抜けて行ったはずの炎が、五稜郭方面に転進。
いっそう災害を大きくしたのではないかと推測される。
→気象学者ならば予測できたであろう風向きの旋転のために、
死ななくてもいい多数の人が死んだ
=当時の気象状況と火元の位置とのコンビネーションは、考え得られるべき最悪のもの
→函館市は従来しばしば大火に見舞われた苦い経験から、
自然に消防機関の発達を促され、その点においては全国中でも優秀な設備を
誇っていたとされていた。
→にも関わらずこのような惨禍に見舞われた一つの要因は、
上記のような不幸な偶然によるものに相違なかろう
「火事の大小は最初の5分間で決まる」と言われている
=近頃の東京で、冬期かなりの烈風の日に発火してもいっこうに大火にならないのは、
消火着手の迅速なことによるらしい
→しかし現在の東京でもなんらかの異常な事情によって少しでも消防が手遅れになり、
火流が長大になりすぎ、それを烈風が煽り立てたら、現在の消防設備をもってしても、
またたいていの広い火除け街路の空間をもってしても、
果たして防ぎ止められるかは疑わしい
→少なくとも函館の場合には、そういう想像が働く
函館市街の地形
=狭い地峡の上にあって、東西とも逃げ道を海で遮断されている
→しかも飛び火のためにあちこちで同時に燃え出し、
その上に風向きが変わっているために避難者もどう逃げていいかわからなくなったことも
重要な理由に相違ない
→そもそも、日本において大火災に関して科学的基礎研究がほとんどまともに
行われていないことが根本的原因なのでは?
→こういう状況で5分なり10分なりの間に消火できる設備が完成すればするほど、
万一の異常な条件によって生じた大火に対する研究はかえって忘れられる傾向がある
=火事に限らず、「これで安心」と思う時に、全ての禍いの種は生まれる
※風向きが変わったことで、火は函館山から見て右側の陸弧に沿って進行。
結果的に函館市街の1/3を焼き尽くしてしまった。
ここでは、風向きの変化があらかじめ分かっていたならば、
逃げ方が工夫できたはずで、其の工夫がなかったせいで
死ななくてもいい人間が死んだ(凍死者、溺死者を合わせて1000人以上出している)
ことを示している。
※「備えあれば憂いなし」と言いますが、
なまじ万全な備えをしてしまうと人は憂うことがなくなる、
という取り方もこういう例からみると出来てしまうわけで…。
最後に自分の身を守るのは結局自分自身なわけですから、
ハードウェアに頼るのではなく身を守る術を自らの身につけておく必要が
あるということでしょうな。
火事は99%まで人間自身の不注意から起こることは周知の事実
→だからといって「火事は不可抗力にあらず」とするのは不穏当
→なぜなら、人間は「過失の動物」であるという、統計的に見ても動かし難い
天然自然の事実があるから
→一方で過失というものは、適当な統制方法によってある程度軽減できるということも、
疑いようのない事実
→よって火災を軽減するには…
・人間の過失を軽減する統制方法の講究と実施
・火災伝播に関する基礎的な科学的研究を遂行し、
その結果を実地に応用して消火の方法も研究
消防当局での研究例
・ポンプやハシゴの改良
・筒先の扱い方
・消し口の駆け引き など
→まだまだ大事ないろいろの基礎的問題が、未研究のまま多く残されている
(例)大火災の場合、火流前線がどの限度を超え、どれだけの風速、風向では
どの方向にどこまで焼けるかという予想が的確にでき、
また気象観測の結果から風向旋転の順位が相当確かに予測され、
そうして出火当初に消防方針を定め、また市民に避難の経路を指導することが
できたとしたらおそらく、あれほどの大火には至らず、また少なくともあんなに
多くの死人は出さずに済んだであろうと想像される
→こういうことは、あらかじめ充分に研究さえすれば決して不可能なことではない
→また、不幸にして最初の消防に失敗し、既にもう大火と名のつく程度になって、
しかも秒速30mの風速で注水が霧吹きのように飛散して用を成さないというような
場合に、いかにして火勢を食い止めないまでも次第に鎮火すべきかということでも、
現代科学の精髄を集めた上で一生懸命研究すれば、
決して絶対不可能ということではないだろう
※この辺りの分析は非常に多面的であり、
もちろん現代においてある程度達成されているものもある。
詳しいことは後述されているが、ここで述べられていることは
「予防の重要性」であり、「的確な被災からの回避法」と言えるだろう。
避難訓練も、もちろんその一環であると言えるだろう。
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