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映画 『かぐや姫の物語』(☆☆☆☆)

宮崎駿が「今はファンタジーを作る時期ではない」と言って
『風立ちぬ』を作ったわけだが、
何のことは無い、この国には「おとぎ話」というファンタジーが、
集落の数、いやもっとざっくり八百萬(やおよろず)あるでないか。
それを『ゲ○戦記』(原作者が認めてないんだから、こう書かざるを得ない)なんて
舶来のファンタジーに逃げたりして、
結果的に大コケしてるんだから世話ないわけである。

今作は、謎の多い「竹取物語」(なにしろ作者不明(日本のおとぎ話はそういうの多いけど))
を、ある程度忠実になぞっている。
もっとも、崩し過ぎたら違和感ありまくりなんだろうけど…。
求婚のシーンなども丁寧になぞっており、
唐突に得難い宝の話が出てくるという、昔話的な超展開は解消されている。
唯一の謎は、竹の中から小粒金や着物が出てくるシーンであるが、
ワシの解釈ではかぐや姫の犯した罪(後述)と関係があるようなので、そこも一応解決。
全体としては、まぁ納得して観ていられたわけであります。

今作は、ある意味非常にメッセージ性の高いおとぎ話に仕上がっている
(ワシがいつものクセで深読みしてるだけかも知れないが)。
まず、男とはいかに醜く、いかにザンネンな生き物であるか。
そして、そんな男の醜さやザンネンさを、女性は理解できない。
であるからこそ、男女の間には無理解を起因とする不幸が少なくない、ということである。
なかなか姿を現さないかぐや姫は、
高貴な男たちにとっては征服するべき対象なのである
(愛してるとか、愛してないとか、そういうことではない)。
男たちは、口々に得難い宝の名前を並べ立ててかぐや姫を手に入れようとする。
「でしたら、その宝を見事手に入れてくださいまし」と、かぐや姫が言う。
彼には山にいた頃から心に思い描く男性(この部分はオリジナル)がいて、
要はこれほどの要求をすれば諦めるだろうと踏んだのである。
しかし男たちは「これほど征服し甲斐のある女性だったとは…」と考えて、
むしろ闘志に燃えて宝を得ようと奔走する。
残念ながら、男とはそういうものなのである。
カネにあかして宝を捏造するぐらいなら、まだかわいい方で、
諦めて他の競争者がいないうちに言葉で口説き落とそうとする者、
命を落としかける者。
そして、本当に命を落とす者が現れて始めて、
かぐや姫は自分の犯した間違いに気づくのであるが、
その騒動が結局のところ帝までも動かしてしまう。

翁もまた「かぐや姫の幸せのため」と言いながら、
かぐや姫の思いを聞こうともせず既存の価値感で突っ走る。
そして、天とやら(結果的に月世界)もそれに加担する。
それは、かぐや姫の犯した罪、
すなわち自然への回帰を提唱したことと無関係ではないだろう。
月への帰還シーンでは、まるで阿弥陀様と見まがわんばかりの使者が、
月から降りてくる。
そして、彼らの世界は、心の波立つことのない、ある意味では極楽、
すなわち楽の極みと言える世界なのであろう。
しかし、おそらく楽に満ち溢れたその世界は、
果たして本当に楽の極みなのだろうか。
我々は、苦境に立つと(いや、立たなくても)「なんか良いことないかなぁ」とか
つぶやくこと一再ではないだろう。
しかし、韓非子の論法を借りれば、「善」の概念があるから「悪」が生まれる、
つまり「楽」の概念は「苦」あればこそ成立するのである。
毎日が「楽」だったら、果たしてそれを「楽」と感じることができるのだろうか。
つまり、月の世界とやらは、
おそらくおそろしくつまらない世界と解することができるわけである。
地球からの帰還者と月で会ったかぐや姫は、
その者から話を聞き地球、すなわち心波立つ世界へ憧れを抱いたのではないだろうか。
それは、悪く言えば無味乾燥な月世界の否定であり、
月世界のやんごとなき者(と思われる)かぐや姫がそのようなことを考えるのは、
月世界の秩序を乱しかねない大罪ということなのではないだろうか。
よって彼女は地球に降ろされた。
それは、彼女の思いを一面で叶えているように見せて、
一度彼女に甘美な経験をさせておきながら、
既存の価値感に縛られた老人を操って、地球世界の醜い面を見せつけ、
彼女を絶望の淵に追い込もうとする、精神的にこたえる罰だったのではないだろうか。
結果彼女は、帝から逃れたい一心で月世界に助けを求めてしまった。
それが引き金となって彼女は、月に帰らざるを得ない状況になる、という流れなのだが、
おそらくそう決まって以降が本当の罰であり、
本当はこのかくも美しい地球に残りたいと思いながら、
月に戻されて地球のことを終生思い出すことができない生活に戻されるという絶望を
与えられることになる。
ただ、この罪なり罰は、文明社会に生きる我々には少々わかりにくいかもしれない。
ただ、この国の自然こそがある意味では得難い宝であり、
まず翁がそれに気づいておらず、
また捨丸(かぐや姫の想い人)もそれが理解できていない。
このことは、我々日本人自身が、
この国の美点やウリに気付いてないことの投影であるとも言えるのではないだろうか
(この辺はワシの深読みかもしれないが…)。

今作は、この不可解な物語を高畑勲氏が解釈し、映像化したものである。
先述したように、ワシもその解釈にはおおむね納得したわけであるが
(原作では罪に対する言及自体無いわけであるが)、
この物語が成立した(と思われる)当時、
この物語はおそらく文明の側にいる人間だけが読みえたものであろう。
そして、当時(奈良時代~平安初期と考えられる)は現代以上の超格差社会である。
地方の富を中央が吸い上げて、貴族がぜいたくな暮らしをする一方で、
地方では税を納められないからと言って「逃散」などの抵抗を試みていた時代である。
そういう意味では、「雅」(京風、都会風)の否定は読者の価値感の否定であり、
そういう作品を、いかなる目的で書いたのか、という新たな謎
(あるいは解釈自体の間違い)が生じるわけだが、
ワシが言いたいことの本質はそこには無いのである。
日本人は、いつまでも昔話を昔話のまま放置し、
けっして大事にしてこなかったのではないか、という疑問なのである。
欧米の映画界では、童話や神話に様々な解釈を与えて、
それによってたくさんの作品を作ってきた歴史がある。
そして、その解釈に我々日本人すら乗っかってきた歴史がある(例:ファンタジーRPG)。
さらに、童話や神話から様々なインスピレーションを得て、
それこそ『ゲド戦記』や『ロード・オブ・ザ・リング』と言った名作を生み出してきた。
それに匹敵する作品が、この国にどれほど存在するものか…
(まぁ…、『桃太郎伝説』とか…?)。
たまに『ヤマトタケル』とか作ると、ヤマタノオロチがキングギドラっぽかったり、
悪く言うと陳腐な特撮映画止まりだったりと
(まぁ、「記紀」に関しては政治的問題もあるしねぇ…)、なんかイマイチな作品が多い。
そういう意味では、今作はおとぎ話と正面から向かい合ってできた佳作であり、
かつ希少な作品であると言えるのである。

最後に、今作には50億円かかったと宣伝されている。
8年という歳月と、スタッフロールで延々と流れる、
原画&動画スタッフの数を考えれば、ある意味当然なのではあるが、
ある意味ではこの事実はアニメ業界にとって大きな問題であるとも言える。
手塚治虫が、キャラクターを商売にしようと考えたのは、
一面においてこの問題を解決するための苦肉の策だったわけだが、
結局この業界は労働集積産業的性質をいまだ色濃く残す産業なのである。
最近では海外で原画や動画を書いて人件費を抑えたり、
デジタル化を試みたりしているわけだが、
今作には協力欄にではあるがタツノコプロなどの制作会社も名を連ねており、
多くの日本人原画スタッフや動画スタッフを使っていることから、
人件費が巨額の製作費の主要因になっていると考えられる。
これを、世界的に日本を代表する産業として売り出そうとしているのである。
http://www.huffingtonpost.jp/2013/06/13/story_n_3438220.html
そのための予算が、記事によると年間で500億円。
8年かかってるとはいえ、今作10本作ったらこの予算溶けちゃう。
しかも、このクールジャパン関連予算には、
日本食など広く日本文化を広めるために使われるわけである。
日本の「クールジャパン」に対する本気度が窺い知れるわけである。
『風立ちぬ』の中でも言ってるように、この国は「貧乏な国」なのである。
文明社会の中でまともに張り合ってもダメっぽいし、
この国のいいところはどうやらそういう文明の力が
あまり及んでない部分にあるみたいだから、
やっぱり慎ましく、
自然と折り合って行くのがこの国のためなような気がするんだけどねぇ…。

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