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映画 『ハンナ・アーレント』(☆☆☆☆)

小難しいが、
人間とは何であるか、
あるいは善悪とは何であるか、
ということを考えさせる、
あるいは考えざるを得ない作品。
そして、世知辛い現代社会において、
もしかすると陥っているかも知れない、
思考停止とそれによる悪への入口
(ハンナ・アーレント(以下「ハンナ」、バルバラ・スコヴァ)は
「悪の凡庸さ」と表現している)
というものを考えさせる、
とにかくいろいろ考えさせる作品。

アイヒマン裁判とその傍聴記により引き起こされた
ハンナに対する批判と、
ハンナ本人によるその反論
(反論部分がクライマックスである)が主体。
批判者のレベルの低さには閉口するが、
それもまた作品の重要なエッセンスではある。
彼らは、彼女に対する有効な対論を持ち得ていない。
なぜなら、彼らはアイヒマン裁判を傍聴していない。
また、やはりナチスに対する裁判は、
懲罰というか復讐的意味合いが強く
(アイヒマンの場合、イスラエルで裁判を受けたなど、
その経緯からして懲罰的と言えるかもしれない)、
彼を擁護(ハンナ自身には全くそのつもりがなかったのだが)
するような言論を許さない雰囲気があったからである。
つまり、彼ら批判者もまた一種の思考停止、
極端に言えばアイヒマンと同じ状態に陥っていたと
考えることができる
(日本的に言えば「空気読め」的状況)。
この矛盾に、批判者自体気づいていないという、
ある種滑稽な状況を生み出すことが、
今作の一つの狙いだと言えるだろう。

一方で、ハンナ・アーレントに全く非が無い、とも言えない。
あまりにも露骨な「わからせる」的態度は、
ハンナとそれ以外の間に決定的な壁を生んでしまったことであろう。
そういう超然とした態度は、
一面としては学者的ではあるが、
東洋で言えば孔子のような、
どうにも扱いにくい存在であるとも言えるだろう。
しかし、ハンナは強い信念を持ち、
孤独と充分対峙できる強い精神力を持っていた。
だからこそ、クライマックスの堂々たる反論を
導き出すことができたのだろう。

『コンプライアインス』のところで、
現代にも「悪の凡庸さ」は充分潜んでいるとワシは書いた。
「人間は考える葦である」(パスカル)とするならば、
思考停止に陥った時点でただの葦、ということになってしまう。
しかし、困ったことにアイヒマンは葦ではなく、マシーンだろう。
社会の歯車であることをある意味強制してしまうところのある
現代社会においては、
やはりアイヒマンのようにマシーン化してしまう素地が
充分にあるということだろう。
特に、「空気読め」的な同調圧力の強い日本においては、
小アイヒマンがいたるところに潜んでいると言えなくもないわけで、
ハンナの投げかけた問題提起は、
現代社会(特に日本の)において多いなる普遍性を持っていると、
ワシは感じたわけである。

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