映画 『汚れなき祈り』(☆☆☆)
人は、何かにすがらなければ生きていけない。
「私は何にもすがらず生きていく」
と言ってるヤツは、自分にすがってるのである。
しかし、時としてそこに矛盾が生じることがある。
そして、そこに悲劇が生まれるのである。
今作は、2005年にルーマニアで実際にあった事件を元に、
信仰と友情の矛盾が生み出した悲劇を描き出している。
同じ孤児院で暮らしたアリーナとヴォイキツァ。
アリーナはドイツで暮らしていたのだが、
無二の親友(広告にはそれ以上の表現で書かれているが)
であるヴォイキツァと本当は一緒にいたい。
一方のヴォイキツァは、
修道女として信仰の中に暮らすことに満足していた
(と言うより彼女も他に行き場がないのだが)。
アリーナは彼女と一緒にいたいがために、
修道院のルールに何とか合わせようとするが、
世俗の全てを捨てることが修道院にいるためのルールだと
神父たちに言われて、
アリーナの心が引き裂かれてしまう。
一方のヴォイキツァも、
アリーナの心情に理解は示すが、
彼女のために信仰を捨てるというところまではいかず、
そのことが結局アリーナを破滅に導いてしまう。
修道院のルールにどうしても馴染めないアリーナは、
精神を病み、自殺騒ぎや部屋に火を付けるなど、
手がつけられなくなって行く。
それでも、行き場のないアリーナを
なんとか修道院に留めたいヴォイキツァは神父に相談し、
神父はアリーナの奇行の原因を悪魔の仕業ということにしてしまう。
そして、「悪魔を追い祓うには、相応の儀式が必要」
ということで、アリーナを拘束し、
エクソシズム(悪魔祓い)の儀式を決行するのだが…。
ここまで聞くと、カルト的な話にも聞こえるのだが、
別にみんなフツーのキリスト教徒。
神父だってそれなりに人望のある人だし
(権威になびかないという意味では奇特とも言えるが)。
あえてカルト的と言えるのは、
修道院ゆえに世俗の社会と一線を引いてることぐらいかもしれない
(世俗にドップリ浸ってるワシから見れば、
やや行き過ぎな気もしないではないが…)。
しかし、そういう意味では全ての宗教がカルト化する要素を
はらんでいるとも言えるわけで、
宗教はすがるばかりでは救われないわけでもあるわけで…。
また、エクソシズムなんていう概念を持ち出すこと自体がねぇ…。
『ザ・ライト』以来、エクソシズムには興味があるんだけど、
今回のエクソシズムはかなりの無理矢理感
(とはいえ、このシーンが見たくて観に行った的なところは
あるんだけど…)。
まぁ、いちおう所定の手続きは踏んでるんだけど、
あの辺の判定の難しさがエクソシズムには
立ちはだかってるんだけどねぇ…。
そして、こういう秘術的なものがまた、
宗教をカルト的なものにしてる要因ではあるんだけど、
世俗と隔離された場所でやると、
オウム真理教の例を引くまでも無く、
カルトの危険性と世俗から言われる要因ではあるんだけどねぇ…。
ただ、映画作品として見ると、
ラストの中途半端感がハンパないんだよねぇ…。
ソレで☆1コ減したぐらいもやっとしたエンディング。
いや、そのラストシーンいる? みたいな感じ。
「晩節を汚す」とは、例えばこういう映画のことを言うんだと思うんだよね。
そういう意味では、非常に惜しい映画。
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