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映画 『NO ノー』(☆☆☆)

独裁政権を相手に、広告的手法でキャンペーンを行い、
みごとその転覆に成功した、
チリでの実話が元になっている今作。
作中でも描かれているように、
こういう時野党側は得てして自分たちがいかに抑圧されてきたのかを
訴えてしまいがちなのだが、
主人公である広告マン(ガエル・ガルシア・ベルナル)が言うように
「未来志向」で「NOを選んだら明るい未来がやってきますよ」
というポジティブなメッセージの方が観る方としては確かに気楽に観れるし、
「また観たいな」という気持ちにもなろうというものである。
独裁政権側は、自分たちの政権を世界的に正当化したいがために、
便宜上国民投票をしてやるだけであって、
テレビにおいては反対陣営にはわずか15分の枠しか与えられていないのである。
おそらく、街頭運動やっても治安出動で鎮圧されるのがオチなのであるから、
反対陣営には実質この枠でしか勝負させてもらえないわけである。
そうなると、むしろインパクト勝負の広告的手法の方が向くわけで、
とにかく視聴習慣をつける今作の手法は、
現代の広告にも通じるみごとな戦略だったわけである。

ただ、映画全体が広告的手法である必要はなかったのではないだろうか。
主役の広告マンも、ピノチェト陣営の宣伝担当となる主役の上司も、
良くも悪くも仕事人然としているのである。
つまり、ノンポリなのである。
主役の方は親が昔何かあったようなのだが、
作中ではほとんど触れられてなかったし、
そもそもピノチェトのクーデターがなぜ起こり、
なぜ一定の支持を得たのか(経済発展はしているようなのだが)、
そういう点にはほとんど触れずじまいで、
少々内容が薄く感じられてしまった。

とはいえ、民衆が国家のありようを自らの手で決めるという過程は、
最近でいえばスコットランド独立問題など、今日的な話題でもある。
翻って日本では、民衆がそのように国家のありようを
自らの手で決めてきたことがない。
明治維新などは「無血革命」として評価する国があるらしいが、
あの時民衆は「ええじゃないか」と踊り狂っていただけで、
一部の例外(奇兵隊とか)を除いて武士(多くは下級のではあるが)が
動き回っていたに過ぎないわけである。
そうなってしまう原因の多くは、実は天皇という存在にあるわけで、
革命がすなわち天皇制の否定に結びついてしまうからなのである。
天皇がある限り、我々には国家の形を決める権利はない、とも言えるのだが、
だからこそ天皇が「日本国民統合の象徴」となっているとも言える。
天皇が実質的には政治に関与していないのだから、
もう少しこの国の形について自由に語れるようになっても、
良いような気はしないでもないのだが、
そもそも日本人自体がそういう感覚をあまり持って来なかったのだから、
仕方ないのかもしれない。

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