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映画 『フォックスキャッチャー』(☆☆☆☆)

ワシ的にこの映画のテーマは、「承認欲求」と「スポーツと金」と見る。
(以下、かなりネタバレ気味のあらすじ)
今作は、主に2つの「承認欲求」から成る。
第一に、マーク・シュルツ(チャニング・テイタム)である。
彼は、ロサンゼルス五輪のレスリングで金メダルを獲得した。
しかし、傍には同じく金メダリストである兄デイヴ(マーク・ラファロ)がいて、
功績は主にデイヴのものとされていた(と、マークは思っている)。
しかも、金メダリストとは言っても生活的には厳しく、
講演などの収入だけでは厳しい状況であった。
経済的にも精神的にも自立を目指すマークの元に、
大富豪の御曹司ジョン・デュポン(スティーヴ・カレル)から、
高い年俸と練習環境を提供するという申し出があった。
マークはデイヴも誘うが、マークは家族を優先して固辞。
マークはジョンの元に一人旅立つことになるが…。
マークは、恐らく「自分がようやく認められた」と思ったことだろう。
ジョンも、それらしい甘い言葉をささやくし、
実際経済的なことも考えずに済むし、
決して得意ではない講演などもカネのためにする必要はなくなる。
しかも、練習設備に恵まれ思う存分レスリングに打ち込めるのである。
しかし問題なのは、コーチの不在である。
当初からデイヴが付いてきていれば、
もしかすると今作のような不幸には見舞われなかったかも知れない。
しかし、ジョンは「レスリングを多少かじってる自分ならコーチは務まる」
と思っていたフシがあり、
実際ジムを象徴するジャージを着て練習を見て回るのである
(その様は、まるで日曜日のジャパニーズサラリーマンである)。
とはいえ、マークが世界選手権を勝てたのは、
ひとえに練習に打ち込める環境あればこそであり、
ジョンのコーチングは、少なくとも技術的にはなんの役にも立っていなかった。
その証拠に、世界選手権でもマークのセコンドについていたのは、
デイヴなのである。
それでもマークは、優勝後いの一番にジョンの元に駆け寄る。
そう。ジョンはジムのオーナーとして、カネだけ出して、
それに満足していれば良かったのである。
しかし、ジョンはそれで満足できなかった。
年齢的に選手としては無理でも、
コーチとして金メダリスト育てたいという野心が彼にはあった。
そして彼は、母に認められたかったのである(これがもう一つの「承認欲求」)。
レスリングを「下品」と言い、
自身は名馬を買い揃え馬術競技に入れ込んでいる。
上品とか下品とか言ってるようじゃ、
母親の器もたかが知れてると言いたくもあるが、
そもそも作中で語られているようにデュポン財閥自体
軍需産業をテコに成り上がった、言わば「成金」である。
そういう外的要因によって品位を身につけようっていう精神構造自体が、
「品がない」ことの証拠と言えなくもない。
閑話休題。
シュルツ兄弟の様子を見たジョンは、自らの力不足を認めたのか、
デイヴのスカウトを強行する。
どんな条件を飲ませたのかわからないが、
デイヴは家族ごとジムへやって来た。
当初、複雑な心境だったのはマークである。
せっかく一人でやっていけるのではという自信(結局は虚妄だったのだが)が、
デイヴの召喚で一気に崩れ去る。
「ジョンは、やはり自分よりもデイヴの力を認めているのでは」
という疑念が彼の中で渦巻く。
しかも、デイヴはその的確なコーチングであっさりジム内に地歩を築くのである。
そうなると、今度は召喚した本人であるジョンが面白くない。
結果、デイヴを面白く思わないマークとジョンが、
双依存のような状態でソウル五輪予選に突入する。
しかし、不摂生(ジョンはマークにコカインを勧めている)と
いい加減なトレーニングで予選突破は厳しい状況に。
みかねたデイヴがマークに歩み寄り、必死のトレーニングをつける。
マークはなんとか予選を突破し、兄との絆も取り戻したが、
その喜びの場にジョンの姿はなかった。
その朝、ジョンの母親は息を引き取っていたのだ。
マークは、これ以上ジムにいてもいいことはないと改めて感じ、
再び兄を誘ってその場から立ち去ろうと考えた。
しかし、オリンピック目前ということで
デイヴにオリンピック終了までガマンするようになだめられる。
そこにジョンから、「自分が正コーチとしてマークのコーナーにつく」
と申し渡される。
デイヴとしては、これ以上マークをオモチャにされるのはゴメンとばかりに、
「マークがジムを出て行っても、自分がジムにいる限り
マークに金を出し続けるように」という
ある意味無茶苦茶な条件を突きつける。
渋々その条件を飲んでソウル五輪に挑むわけだが、
正直どっちが正コーチだかわからないぐらい、
ジョンの存在感は薄かった。
当然のようにマークは敗れて帰国。
マークはジムを出て行き、しばらく経った冬、ついにジョンは凶行に及ぶのである。
ジョンも、マークも、結局は自分の欲求を満たされることなく、
かたや殺人犯となり獄中死、
かたや総合格闘技(もっと言えばケージマッチ)に身をやつした後、
田舎でレスリングコーチ、という道を歩むことになるのだ。

あらすじの中でもサラッと書いたが、
ジョンにとってマークは「オモチャ」だったのではないだろうか。
だからこそ、自分の思い通りになって欲しいと思うし、
興味が失せれば「どうでもいい」存在にもなってしまうのだ
(作中では昔遊んだ鉄道模型の処分を母任せにしたエピソードが出てくる)。
しかし、同時に彼にはそもそもコーチとしての適性が
著しく欠けていたことも事実である。
ジョンの妻子の描写が無いように、彼は独身で(いちおう結婚したことはあるようだが)、
しかもかしずかれて育ったためか、
そもそもコミュニケーション能力が低い(人のこと言えないが…)。
その上、レスリングもかじった程度で、正直自分自身勉強中の身であるし、
何と言っても相手は金メダリストである。
技術的には世界最高水準なわけである。
それでも、彼の存在がマークにとって必要だった時期があったのは、
カネだけではなく、マークの生い立ちにもある。
マークが2歳の時に両親は離婚し、
実質的にはデイヴが父代わりのような生活が、
つい最近まで続いていたのである。
しかし、デイヴには妻子がおり、その家族の中に自分の居場所がなかったのであろう。
だからこそ、ジョンの申し出はいろんな意味で「渡りに船」であり、
ジョンがマークに自信を持つことの大切さを説いて、
マークに自信をつけさせたことは事実である。
マークはジョンを「父」とも「師」とも仰ぐのである。
その時点では、マークの「承認欲求」はある程度満たされていたわけだが、
それが徐々に重荷となる。
「失うもの」が生まれたからだろう。
結局マークは、それに耐えられなかったわけだし、
その意味では未熟者だったわけであるが…。

とはいえ、ジョンの出した破格のマネーが、
アメリカのアマレス界にとっては助けになった側面は否定できない。
いかにジョンのお手盛りのレスリング大会であっても、
そういう場を提供することはレスリングの裾野を広げる要因になるわけだし、
大相撲の「タニマチ」の例を引くまでもなく、
カネを気にしないで自己鍛錬に励む環境は、
アスリートなら誰でも欲しがるものだろう。
だからこそ、社会主義圏では国家を挙げて育成するわけだし、
企業スポーツにもそういう一面があるのである。

しかも、レスリングを取り囲む環境はこの当時以上に厳しい、
というのが現状である。
冬季オリンピック振興策として、レスリングを冬季に移す
(屋内競技だから夏でも冬でもOKということだろう)。
開催規模そのものの縮小策として、階級の統廃合。
女子レスリングのビキニ化。
さらには、今作のラストでも語られているように、
他の格闘技との人材の奪い合い
(日本では永田裕志や本田多聞、アメリカではカート・アングルなどが有名)。
正直、アメリカの体育では選択種目の一つに入っている、
という話を聞いていただけに、この現状はちょっとショックでした
(もっとも、カート・アングルの存在を知っていたので、
そことリンクさせてなかっただけとも言えるのだが)。
マークが金メダルを取ったロサンゼルス五輪から、
オリンピックの商業化が本格的になってきたことと考え合わせると、
レスリングが抱える現実がその点と妙にリンクしているという意味では、
今作は相当な皮肉と言えなくもない。

レビューとしては長過ぎるが、
スポーツ界の抱える厳しい現実の一側面を活写しているという意味では、
相当興味深い作品である、ということである。

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