映画 『エクソダス:神と王』(☆☆☆)
元ネタは、『旧約聖書』の中でも有名な「出エジプト記」であり、
既に映画化もされている一節ではあるが、
3D同時上映ということもあり、
映像的には今まで以上のスペクタクルではある。
しかし、有名であるがゆえにストーリー自体に特段のひねりがあるわけではなく、
物語として観て、また宗教に対する知識に乏しい我々日本人が観て、
それほど大きな感銘を受けるものでもない、かもしれない。
しかし、ヘブライ人(後ののユダヤ人)にとって、
(少なくとも作中における)当時のエジプトが行ってきた扱い。
あるいは、エジプト人にとってヘブライの神がもたらした災厄
(ヘブライ人にとっては神罰)は、
互いの信じる神(すなわち異教の神)をもって
「邪神」だの「悪魔」だのと呼ぶにふさわしい所業と言えるだろう
(そして、日本の神はしばしば厄災をもたらす者である)。
己が神を正義と固く信じるならば、
異教の存在はまさに「邪悪」ということになるわけで、
そういう厳しい宗教を持たなかったアジア諸国は、
そういう意味では幸せだったと言えるが、
それは同時に彼らを理解する上での一つの妨げになっているとも言えるだろう。
『ザ・ライト』の中でエクソシストが、
「神の存在を認めるということは、同時に悪魔の存在も認めるということ」
というようなことを言っていたように記憶している。
日本の神は上記のような成り立ちを持つがゆえに、
ある意味では神魔一体と言えるかもしれない
(「ノアの箱舟」なんかを見ると、
西洋の神にもそういう側面を持つ時期があったように思われるが)。
だからこそ、例えばキリスト教徒とイスラム教徒や、
キリスト教徒とユダヤ教徒(今作中でもモーゼはヘブライ人に裏切られるわけだが)
の対立を本当の意味で理解することはできないのではないだろうか
(日本人だけじゃない、と思われる話もあるが…)。
また、聖書(この場合、記紀も含ませてもらう)という文章が、
なまじ残っているからこそ、
後世の人間が自分たちに都合のいいように解釈してしまう、
という側面を今作でも垣間見せる。
今作のような記述があるからこそ、ユダヤ教徒は自分たちのことを
「選ばれた民」であると考えるわけであるし
(「出エジプト記」だけの問題でもないと思うが)、
「イスラム国」を僭称する輩だって『コーラン』を典拠に、
あのような悪行を働いているわけだし、
日本でも国家神道などという人工宗教を生み出す元になったのは、
「記紀」によるわけである。
今作中でも一見キリスト教っぽい結婚の儀式登場するが、
場所柄を考えるともっと普遍的な信仰を基にした儀式と考えることもできる
(もちろん、製作側がキリスト教のそれを基に創作したと考えることもできるが)。
聖書とは、警句であり道徳の一部と考えるのが、
ワシなどは妥当だと思っている。
もちろん、それはワシが日本人であるからそう考えるのかもしれないし、
敬虔な信徒にとってはもっと厳密なものに違いないだろう。
しかし、それが争いの種になることを、
例えばモーゼなどは望んでいないと、ワシは思うのである。
だからこそ、「神」も「悪魔」もきちんと認めた上で、
それと向かい合い、うまく付き合う方法を世界中が考えていくべきなんじゃないか。
そう、ワシは思うわけである。
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