« 映画 『みんなのアムステルダム国立美術館へ』(☆☆☆) | トップページ | 映画 『サムライフ』(☆☆) »

映画 『ソロモンの偽証 前篇・事件』(☆☆☆☆)

初めから、前後編あると謳ってる以上、
そもそも単独で評価するべき作品ではないのだが、
アナウンスされている以上観客としても、
相応の観方があるので、ワシなりの観方でひとまず前篇を評価する。

語られる内容まで明記している以上、
前篇はザックリ言えば「ネタ振り」であり「因縁付け」である。
単純に言えば、「閉じた子供社会」の話であり、
その中のいじめっ子といじめられっ子の問題なのであるが、
「子供のケンカに親が出る」ではないが、
大人たちが自分たちへの評価を恐れて、
大人の論法で言えば「穏便」に解決しようとしたのである。
しかし、一度事件が明るみに出れば、それは「隠蔽」と同義となり、
評価を恐れていたはずの大人たちにとってそれはむしろ致命傷に変わる。
子供たちはそれに巻き込まれ、
閉じた社会の中でさらに疑心暗鬼を生む。
そんなモヤモヤした現状を打破すべく提示した手段が、
「裁判」という真実追求の場である。

ある意味では、今作だけである程度話は成立している
(いや、させているというべきか)。
それは、この国の大人たちの病理である。
なぜ「あの戦争」の、なぜ「あの震災」の総括が、未だ提示されないのか。
それは、この国の大人たちがあまりにもナイーヴだからである。
誰かを傷つけることも、もちろん自分が傷つくことも、
彼ら大人たちにとっては堪え難いのである。
来るべき訴訟社会を想定して法曹界の人間を増やすべく執ってきた諸政策が、
ことごとく裏目に出て、今や弁護士余りを叫ばれる時代である。
「適正な人員配置が行われていない」とか、
「不況のせいで法廷闘争を忌避してる」とか適当な言い訳をしているが、
そもそも弁護士不在地区がなぜ生まれるかといえば、
そんなところに行っても誰も訴訟なんか起こさないからである。
それは何故か。
それは、争うことそのものを忌避しているからである。
もっと言えば、「あの戦争」をやるかやらないか、
最終決定をするべき御前会議の場で、
誰ひとり「戦争反対」の意見を出すものはいなかったという。
それは何故か。
それは、かの天皇陛下ですら、会議の場で波風を立てたくない、
そう思ったからだと言われている。
この国の大人は、そのぐらいナイーヴなのである。
何でもかんでもウヤムヤにして、誰も責任を取らないようにする。
「からかさ連判」の例にもあるように、
昔からのこの国の大人たちの知恵なのである。
「からかさ連判」では、全員を罰したら惣村の経営が成り立たなくなるから、
責任を回避してウヤムヤにするのは弱者にとってアリな戦術なのだが、
強者まで責任の所在をウヤムヤにしたのでは、
「全員死刑で上層部全とっかえ」されかねないのである。

世の中を悪くするのは、いつだって大人である。
しかし、それを大人たちは認めようとしない。
認めてしまったら、自分たちの既得権がなくなってしまうからである。
今作は、大人を糾弾するための裁判ではない。
しかし、大人が入り込むことによってウヤムヤにされることを防ごうとしている時点で、
暗に大人たちを糾弾しているのである。
実際、実力行使に出る教師や、
「誰かが傷つくのは見てられない」と圧力をかける大人など、
彼らは実は排除されるのが怖いだけなのである。

今作は、「ネタ振り」や「因縁付け」だけではない。
キッチリ「キャラ立て」もしている(「因縁付け」に含まれる部分もあるが)。
そういう意味でもよくできているが、
☆5つとするには、やはり後篇を待ってからとしよう。
前篇から、相当見応えのある作品に仕上がっていることは間違いない。

« 映画 『みんなのアムステルダム国立美術館へ』(☆☆☆) | トップページ | 映画 『サムライフ』(☆☆) »

映画・テレビ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/134965/61262317

この記事へのトラックバック一覧です: 映画 『ソロモンの偽証 前篇・事件』(☆☆☆☆):

« 映画 『みんなのアムステルダム国立美術館へ』(☆☆☆) | トップページ | 映画 『サムライフ』(☆☆) »

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ