「寺田寅彦で読む 『地震と日本人』」 第2期目次

第1期目次
http://you-max.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-79f8.html

怪異考(昭和2年11月 『思想』より)-①
http://you-max.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/211-601a.html

怪異考(昭和2年11月 『思想』より)-②
http://you-max.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/211-7d50.html

時事雑感(昭和6年1月 『中央公論』より)-①
http://you-max.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/61-01eb.html

時事雑感(昭和6年1月 『中央公論』より)-②
http://you-max.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/61-ecc5.html

時事雑感(昭和6年1月 『中央公論』より)-③
http://you-max.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/261-b809.html

火事教育(昭和8年1月)
http://you-max.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/81-4f9d.html

神話と地球物理学(昭和8年8月 『文学』より)
http://you-max.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/88-91ab.html

函館の大火について(昭和9年5月 『中央公論』より)-①
http://you-max.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/vs95-4640.html

函館の大火について(昭和9年5月 『中央公論』より)-②
http://you-max.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/95-da9b.html

静岡地震被害見学記(昭和10年9月 『婦人之友』より)
http://you-max.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/109-95a0.html

小爆発二件(昭和10年 『文学』より)
http://you-max.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/10-6f4e.html

この国に生きる、ということ ~①前提~
http://you-max.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-f2db.html

この国に生きる、ということ② 西山編-(1)
http://you-max.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/1-606f.html

この国に生きる、ということ③ 西山編-(2)
http://you-max.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/2-59fa.html

この国に生きる、ということ④ 金比羅山編
http://you-max.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-76f5.html

この国に生きる、ということ⑤ 遺構編
http://you-max.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-9190.html

この国に生きる、ということ⑥ 修学旅行の意義を問う
http://you-max.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-4c66.html

この国に生きる、ということ⑦ 『津波と人間』とニュースな事例
http://you-max.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-9a7b.html

この国に生きる、ということ⑧ 『天災と国防』と日本が次に進むために
http://you-max.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-5ef0.html

この国に生きる、ということ⑧ 『天災と国防』と日本が次に進むために

今年の梅雨は少々難解である。
沖縄ではや九州が早々に梅雨明けしたというのに、
関東などでは猛暑日すら記録する日が続いているのに、
いまだ梅雨明けが宣言されていない。
やはり、昨年末から始まる大雪などから今年の日本は
寺田が『天災と国防』で言う悪い年回りと言えるのではないだろうか。
チリでの火山噴火やニュージーランドでの地震など、
昨年後半から環太平洋造山帯が活動的であり、
この傾向がいつまで続くか予断を許さない。
そうなると、すわ東海・東南海・南海でも、と言うことになってくるが、
まぁ今起こったら日本は壊滅的ダメージを受けるでしょうな。
にも関わらず政治の方はと言えば、いっこうに危機モードのスイッチが入っておらず、
「菅直人が降りたら…」だの
「◯◯なら与野党をうまくまとめてくれる」だの、
「いや、大連立は翼賛体制の再来だ」だのと言ってもめるばかりで、
いっこうに先に進む気配がない。
かと言って、「オレに任せろ」「オレならやれる」と言ってくれる
頼もしいヤツがいるわけでもなく
(日本人はそう言うヤツがキライみたいだけど)、
そうなると少なくとも一般民衆なら「誰がやっても大差無い」ということになる。
だからこそ寺田は「良い年回りのうちに備えを怠らないことが大事」と言うのだが、
前回の悪い年回りだったと思われる1995年
(阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件のほか、信越地方で死者を出した7・11水害など)
の後、政府は何をやっていたか。
例えば単純に首相で言えば当時在任中の村山富市から菅直人まで10人が在任している。
小泉純一郎が約5年やっている以外は長くてせいぜい2年ほどで、
安倍晋三以降は既に死に体の菅直人を含めた5人が1年ごとに交代している。
各国務大臣に至っては、もっと短い期間で交代していると考えられるので、
連続性と一貫性においては当然疑問符がついてしまう。
かと言って、その連続性と一貫性を補完する官僚たちは何をやっていたかと言うと、
旧態依然の計画を後生大事に予算化しようと奔走してるわけで、
悪い意味で連続性と一貫性を発揮していると言えなくもない。
現場の頑張りで神戸などは奇跡的に早い復興を遂げたが、
今回の震災とは被災規模が格段に違うし、
当時以上に財政状況が不健全になっているのが足かせにもなっている。

一方で村上春樹が効率重視路線を非難していたが
(お前がするなよ、とワシは思うのだが…)、
日本は世界と戦うために高度に合理化してコスト削減に励んできた。
そのために、例えば自動車産業は下請けが最終的にいくつかの企業に収斂されていく、
タルのような産業構造になってしまっていた。
そのタルの底が震災で一気に抜けてしまったために、
実は世界中の自動車産業にダメージを与えてしまう結果になってしまった。
一貫生産ではなく、外注を繰り返してコスト削減に励んだ結果、
親会社からタルの底が見えにくくなってしまっていたのだろう。
その辺りのことも寺田氏は苦言を呈していたわけで、
つながることで大きな力を産んだり相互扶助の構造を生むというメリットと、
共倒れするというデメリットのバランスを本来はよく考えておかなければならなかった、
ということなのだろう。

本編でも、自衛隊の役割は日本のこういう現状に対して理にかなっていると書いたが、
そもそも自衛隊自体東アジアの地政学的要請から生まれたと言えるわけだから、
災害救助が必ずしも本分とは言えない。
特に現状では、中国が東シナ海や南シナ海に勢力を張り出して、
太平洋進出を目論んでいると言われており、アメリカも憂慮している。
その状況においても周囲に気を遣って、
防衛力を領土・領海内に張り出していない自衛隊は、
災害救助が本分と思われても仕方ないと思われる。
中韓が今回の震災で真っ先に支援を申し出たのも、
硬軟織り交ぜた外交戦略の一環だと勘繰ることだってできる。
したたかとも、あざといとも言うことはできるが、
そういうところに付け入られないようにするのもある意味国防と言えるし、
どこの国も常にそう言うことを考えているぐらいに思っているべきだと、
ワシは思うわけで…。
「戦争は人間の叡智で防ごうと思えば防げるが、
天災の発生は人間の叡智でも防ぎ切れるものではない」
と言うようなことを寺田氏も言っているわけで、
もっと国防のために真面目に知恵を絞った方が良いんじゃないでしょうかねぇ。

最後にワシとしては、
そろそろ東北の方々には自力で立ち上がることを考えてもらいたいな、と思うわけです。
どうやらあまり動きたくないみたいですし
(故郷に近寄ることさえできない地区もありますが)、
郷を愛する心がそんなにお強いのでしたら、
永田町内で不毛な政治闘争をやっている議員のセンセイ方のことなんか無視して、
自力でなんでもやったらいいと思うんですよ。
確かに金の問題がついて回るとは思いますが、
臨時の仕事だからってガレキの撤去の仕事を嫌がっていても、
そのガレキが突然消えるなんて言うことはないわけですから
(まさかボランティア頼みってことはないと思いますが…)、
新しい器を建てて前に進むためにはまずやらなければならないことだと思います。

第3期については、やること自体は決まってますが、時期に関しては未定です。
いろいろ出かけてるので、写真の紹介なんかもしたいと思ってますし、
映画を観てるペースが今年は非常に早いので、レビューに忙殺されてるとも言えます。
まぁ、これに関しては長く取り組んで行きたいと思ってますので、
やめる気だけはないんですが…。

この国に生きる、ということ⑦ 『津波と人間』とニュースな事例

1000年に1度と言われる大津波の中、
いくつかの生存事例が当然のようにニュースで取り上げられた。
まずは、岩手県宮古市姉吉地区に立つ、今や有名な石碑。
以下に、その碑文を書き写す。

高き住居は / 児孫の和楽
想へ惨禍の / 大津浪
此処より下に / 家を建てるな

まぁ、ここまではテレビなどでもよく取り上げられていたので、
知っている方も多いだろう。今回問題にしたいのは、この下に書いてある文言である。

明治二十九年にも
昭和八年にも津
浪は此処まで来て
部落は全滅し、生
存者僅かに前に二人
後に四人のみ。幾歳
経るとも要心あれ

そう。この碑文は、昭和三陸津波以降に立てられたことがわかる。
単純に言えば、ここも1度大きなミスを犯しているわけである。
まぁ、1度で済んでいるだけマシと言えばマシなのだが…。
ネットで調べる限り、どうも三陸沿岸の集落には同様の石碑が
何十ヶ所にも立てられているらしい。
そして、それよりも下に住居が建てられている画像もアップされている。
つまり、懲りない連中の寄り集まった集落が何十ヶ所もあるということである。
そりゃ、ニュースになりますわ。
そういう彼らの言い分はこうである。
 ・漁業で生きてるこれら集落の住民は、はじめは懲りて高所に住むが、
  それでは不便なのでだんだんと元の低地に戻って行く
 ・崖のように切り立った地形だから、すぐに高所に逃げられると思った
 ・昔から低所に住んでいるから、地縁を断ち難い
まぁ、そういうことなんでしょう。
だから、よそ者が合理的に「こんなところに住んでいては危険だよ」と言っても、
あなた方はなかなか聞く耳を持たないんでしょう。
(以下しばらく私見)
例えば、こういう集落の人々は、家をどうやって買ったんだろうか。
まさか、ローンなんか組んでるんじゃないだろうか。
いつ流されるかわからないような場所に、ローン組んで家建てるとか…。
それにあなた方、いつまでも体が自由に動くと思ったら大間違いですよ。
階段の上り下りにも難渋するようなお年寄りがいっぱいいそうな集落が多そうですから、
そんな急な崖みたいなところ、一気に駆け上がれると、まだ思ってらしたんですか?
それに、地縁とかおっしゃいますけど、
これらの集落はほぼ全滅に近いダメージを受けてらっしゃるんでしょう。
地縁も何も、よそから血縁を頼って来た人たちが意外と多いんじゃないんですか?
この国は、対して年月も経てないのに、何でもかんでも「伝統」にしたがるから…。

口汚く私見を述べ終えたところで、
寺田先生はそんなこと百も承知、という話を『津波と人間』で紹介しました。
・同追記では、明治三陸津波の後に建てられた石碑の末路も書かれていましたが、
 多くの集落ではその忘れ去られた石碑と同じような運命をたどっていたわけで、
 懲りないにもほどがあると言うか、呆れてモノが言えないと言うか…。
・歴史は繰り返すと言うか、同文中で明治三陸津波以降、
 一度は住民も懲りて高地に住んでいたが、5年、10年と経つうちに
 結局水辺に戻って行ったという話を載せている。
・「自然は過去の習慣に忠実」で、「頑固に、保守的に習慣的にやってくる」のだから、
 対抗しようと思うなら我々も習慣に忠実で、
 頑固で保守的になる必要があるかもしれない。
 「津波てんでんこ」のような教えを頑なに守った人が生き残り、
 またそれを語り継いで行くことは、有用な対抗策と言えるのではないだろうか。
・田老の「万里の長城」と呼ばれた防潮堤は、
 確かにあまりにも大きな津波の前に敗北した。
 しかし、それに頼り切って昔から残っている記念碑(田老にも残ってた)や
 「津波てんでんこ」の伝承(田畑ヨシさんの事例)を軽視して
 「万里の長城」に寄りかかった田老の住民が、自らこの厄災を招いたと、
 寺田の言説を借りれば言えるかもしれない。
・であるからこそ、孫子の言ではないが「敵を知る」ための教育とその浸透が、
 寺田は特に大事であると説いている。
 ただ、人は日々安穏に暮らすためにそういうことを忘れるのだ、
 というやや諦めに似た心情も吐露している。
 忘れないためのうまい仕掛けが大事だな、と
 ワシはジオパークを見て改めて感じ入ったわけである。

サラリーマン内閣には何もできない。
「菅直人を下ろせば前に進む」とか言っているマスコミは多いが、
他の誰がなったって結局利害調整に忙殺されるだけで何もできないだろう。
菅直人を擁護するつもりはさらさらないが、
どうせならボロ雑巾になるまで彼にやらせておけばいいと思うのである。
日本には、このご時世に進んで総理大臣になって全責任を負おうと考える政治家は
現れないだろうし、むしろ現れたらめっけもんだと思う。
そういう人間が現れたら、一度独裁をさせてもいいとさえ思う。
そうでもしないと、みんな目が覚めないんじゃなかろうか。

この国に生きる、ということ⑥ 修学旅行の意義を問う

思えば、ワシが洞爺湖に初めて来たのは、小学6年生の修学旅行の時で、
今回はそれ以来だったわけで、それは今からもう25年も前のことになります。
札幌から洞爺湖ならそう遠くないと思われるかも知れませんが
(実際列車で2時間弱ですから、東京ー日光よりも近いんですが…)、
実際問題そうそう行くところじゃないんですよねぇ
(単にウチが貧乏だから、というのもありますが)。
競合も多いですし(近くは定山渓、朝里川。札幌ー洞爺間なら登別の方が近い)、
やはり泊まりとなると、それなりの出費を覚悟しなければならないわけで…。
お手軽な観光地とは言えないところがありますし
(そういう意味では、小樽という強力な競合者がありますが…)、
興味の無い方には決して楽しい場所とは言えない場所でもあります。
ワシにしたところで、今回の地震みたいなことがなければ
死ぬまで足を向けなかったかも知れません
(本当の目的が別にあったというのもありますが)。

で、今回の主題である「修学旅行」の話なんですが、
25年前と言えば当然2000年噴火の前ですから遺構が残ってるわけではない
(むしろ団地なんかは現役だったはず)ですが、
かと言って例えば有珠山や昭和新山に行ったかと言うと、
これまた記憶が非常に曖昧でして…。
多分行ってないか、脇をすり抜けた時にバスガイドさんが軽く説明してくれたかなんか
(多分していても聞いてなかったと思うが…)
という程度だったような気がします。
行く前に予習した記憶も、行ったあとに復習した記憶もほとんどないですし…。
でも、多分多くの方が同じような感じだったのではないかと思います。
法隆寺の坊さんの説話がつまらなかったとか、
ジジ臭い寺やら神社やらばっかり回ってつまんなかったとか、
覚えてることは深夜にイタズラした(された)こととか、
ディズニーランド行ったとか…。
字面だけ言えば、コレのドコが「修学」なんだ、と今更ながら思うことがあります。
だいたい、私立の学校を中心に、学校での勉強は受験偏重気味で、
修学旅行でたとえなにがしか学んで来たとしても、
それが受験に直結したという話を、ワシは聞いたことがありません。

しかし大人になった今、「もう一回修学旅行で行った◯◯に行きたいなぁ」
と思っておられる方は、多分少なくないことでしょう。
ワシにしたところで、今回の洞爺湖は実際行ったわけですし、
京都なんか1週間ぐらい使ってじっくり回り直して見たいと思うことがしばしばあります。

イマドキの若い子は、ネットで見聞きしただけで、現地に行った気になれる
「省エネ」体質なので、ただ当地に行って説明を聞いただけでは、
もう二度と行きたがらないかもしれません。
そういう意味では、最近の農業体験などを盛り込んだ「体験学習」型の修学旅行に
向かっているという流れは、いい傾向でないかと思います。
せっかく積立をしてまでも行くような、学校生活の一大イベントなわけですから、
一生の、とは言わないまでもせめて5年や10年ぐらい、
体に、心に爪跡を残すような仕掛けを、
受け入れ側も学校側も考えて行く必要があるのではないか、
と私は考えるわけであります。

この国に生きる、ということ⑤ 遺構編

車に戻り、金比羅山を降り、洞爺湖温泉街に入る。
洞爺湖ビジターセンターの駐車場に車を止めて、
前回上から見た「やすらぎの湯」や「桜ヶ丘団地」に近付ける遊歩道へと向かう。

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遊歩道に行くには、まず導流堤を超えなければならないのだが、
超える前にその導流堤の上から1枚。
下から見ると、砂防ダムなどが逆に城壁のようで、
山への侵入を拒んでいるような錯覚に襲われる。

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導流堤を超え、遊歩道に入る。画像左の壁は、全部導流堤。
表に見える鋼板の間を、工事中に出た掘削土砂で埋めて作られている。
火山灰質で振動が多いためか地盤の弱い有珠山麓では、
基礎の打ち込みができずコンクリートの構造物を立てるのには不向きなために
取られている工法だが、
廃物利用との一石二鳥を狙っている点が興味深い。

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向こうに洞爺湖の中島を望める点から考えて、大浴場があったと思われる場所。
高台から温泉街と洞爺湖を望める絶好のビューポイントだったわけだが、
熱泥流と11年という年月がそれを覆い尽くしてしまっている。

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唯一ココが共同浴場だったと思わせる痕跡が、このコインロッカー。
もともと何段あったかはわからないが、最上段を残して埋まっていることなどから見ても、
高さ1m以上の熱泥流が流れ込んできたものと考えられる。

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国道230号線にかかっていた「木の実橋」の橋梁。
全体を無理にフレームインさせようとしてしまい、
かえって大きさが伝わらなくなってしまったが、
これだけの質量のものを80m以上押し流したのは、
熱泥流という質量を持った流れだからだろう。
通常の洪水や鉄砲水では、こうはいかないだろう。
大規模な土石流のことを「山津波」と言うが、
押し流す力で言えば海の津波に劣らないパワーがあるという意味もあるのかもしれない。

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1棟残された「桜ヶ丘団地」。
ココの説明書きには、以下のようにある。
「(前略)被災した住宅を『公開しないで』と言う声も多く寄せられましたが、
噴火の遺構物として保存し火山噴火によるエネルギーの大きさと貴重な体験を
風化させることなく次世代に引き継いでいくことが何よりも大切であり、
この地域の減災、防災につながる事を期待しております」
東北では、今回の自身の痕跡を復興の邪魔になるという理由で
一つ一つ消されようとしている。
某ワイドショーで原爆ドーム(世界遺産)の例を引いていたが、
当地も世界ジオパークとして世界的に認知されているわけであり、
確かに東北の方々の気持ちもわかるが、
戒めの意味でも何か一つ二つ残すという選択肢はないものなのだろうか。
今まで散々忘れてきて、
津波が来るたびに大きな被害を懲りずに受け続けてきたわけだし…。

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この棟が残された理由の一つが、この傷跡。
先に挙げた「木の実橋」が命中した時の痕跡である。
また、洞爺湖側から見て左側に当たるこのサイドは、
1つ前の画像でも分かる通り熱泥流により深く飲み込まれており、
本来5階あるこの棟の1階部分がほぼ完全に埋没している事が見て取れる。

現地の解説は以上。もっとも、有珠山や昭和新山も回ってないので、
これが全貌だと思われても困るのだが…。
次回からは、こういった教訓がこの国では必ずしも活かされていないのではないか、
という話を今まで取り上げた寺田氏の随筆を元に紐解いて行くこととする。

この国に生きる、ということ④ 金比羅山編

駐車場に戻って車に乗り、金比羅山展望台に向かってさらに登る。
ちなみに金比羅山は、入山料が発生する。
駐車場から歩いて登っても、車1台程度の人数なら1000円発生する。
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金比羅山展望台からは、このように洞爺側、虻田(噴火湾)側の両方を望むことができる。
虻田側に関しては西山編で触れているので、以下主に洞爺側について触れていく。

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洞爺湖温泉一帯を中心に撮った一枚。
奥が洞爺湖温泉街。
導流堤(「へ」の字型の城壁みたいなもの)を挟んで、
町営温泉浴場だった「やすらぎの家」。
熱泥流に飲み込まれた公営団地「桜ヶ丘団地」の1棟。
砂防えん堤(導流堤と同様)を挟んで、一番手前に見える水たまりが、
2000年噴火で開いた「珠ちゃん火口」。
ココから見た火口と温泉街のこの距離感には、戦慄を覚える。

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2000年噴火時には高々と噴煙を上げていたが、現在は静かにしている「有くん火口」。
2枚目は火口寄りに撮影したもの。
周囲の谷の谷筋に対して垂直に配置されているのは、
「床固工」や「山腹工」と呼ばれるものである。
これらは泥流の発生を抑えるのと同時に、山に緑を取り戻すために設置されている。

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町営温泉浴場「やすらぎの湯」(1枚目)と「桜ヶ丘団地」(2枚目)。
熱泥流に飲み込まれ、不自然に埋まっている様子がよくわかるだろう。
ちなみに、「桜ヶ丘団地」の画像の右上に写っているのは、
旧国道230号線にかかっていた「木の実橋」の橋梁。

次回は、上から眺めたこれらの施設により接近して見られる「遺構編」をお送りする。

この国に生きる、ということ③ 西山編-(2)

西山編の後編は、西山火口から虻田(噴火湾)側に降りて行く。

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西山火口展望台から虻田町(噴火湾)方面を望む。
2枚目は、1枚目中ほどにある被災した製菓工場。
地下からの地盤隆起と、上空からの火山噴出物の両方にさらされ、
無残な当時からの姿をそのままにとどめている。

西山山頂を越え、噴火湾側に下って行く。
その道路は、1977年噴火の後に避難道として造られた町道「泉公園線」なのだが…
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道路の直下で断層活動があり、6mの隆起があった。
土の山のてっぺんに乗っかっているアスファルト片が、
もともとは自分の足元と同じ高さにあったわけである。

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同じ断層活動によって地中に埋めていたボックスカルバート(函型管渠)が、
地上に浮き上がってきている。
2枚目は、そのすぐそばにある断層面。
こういった生々しい断層面を見る機会は、なかなかないだろうと思われる。
ポスト原発の一つとして地熱発電が検討されているようだが、
地熱の源となる火山とて、原子力に劣らない暴力的なパワーを秘めているということを、
忘れてはならないだろう。

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この町道は「泉公園線」というだけあって、景観にも気を配って、
こういった美しい松の並木を配していた。
観光に力を入れている町だけあって、避難道一つとっても様々配慮されているのである。

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先ほどの断層からさらに虻田側に下ったところにあった幼稚園舎。
製菓工場のように地下からの隆起は無かったようだが、
天井に空いている穴が火山噴出物の落下の激しさを物語っている。

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この幼稚園は、園庭にも入ることができ、そこに落ちた火山噴出物は
ある程度当時のまま置かれているのだが…
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(石の上に置いてあるのは、一般的な3色ボールペン(長さ約15cm)です)
このくらいの大きさの石(=噴石)がゴロゴロ落ちている。
ここが園児たちの遊び場であることを考えると、
ココに転がっている石は全部噴石であると考えていいだろう。
こんなものが何千、何万と噴き上げられ、容赦なく地上に降り注ぐのも、
火山噴火の恐ろしさの一つであろう。

洞爺側からこの遊歩道に入ると、この幼稚園が折り返し地点となる。
繰り返しとなってしまうので、西山編はこれまで。
次回からは洞爺湖温泉が生まれるきっかけになった、
1910年にも噴火している金比羅山に登ってみることとする。

この国に生きる、ということ② 西山編-(1)

金比羅山火口への登り口にある駐車場(ここは無料)に車を止め、
そこから西山火口に向かう道に入る。

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まず目に飛び込んでくるのは、噴火による隆起で寸断された国道230号と、
その窪地に雨水などが溜まってできた沼。
沼の向こう側の道路沿いに放棄された住居があったり、
沼の向こう側からきた車用の標識や街路灯がそのままにされていたりする。

あいにくの天気で人通りもまばら。
土産物屋も開店休業状態でひっそりとしている。
その脇を抜けて、西山火口への道に入る。
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西山火口への道から沼方向を見る。
奥の建物は、旧西胆振消防本部庁舎。現在は有珠山噴火展示資料室。
電柱や電線は捨て置かれ、無傷の道路標識が池の中に虚しく残っている。

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1つ前の画像の中ほどにある白いものを拡大撮影。
噴石が直撃したのか、屋根の部分が潰された自動車が打ち捨てられている。

旧道脇に用意された遊歩道を登りだす。
もともとこの道は下りの道だったのだが…
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西山一帯が噴火時に大きく隆起したために上り坂になってしまっているのだ。
先ほどの沼ができた原因は、この隆起による。
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下り方向に塗り固められていたアスファルトが、
地殻変動によって持ち上げられ、階段状に寸断されている。
この画像ではたいしたことないように見えるが…
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この通り、遊歩道沿いにけっこうな距離で続いているのだ。
その亀裂から生えている植物が、時の流れを感じさせる。

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そういう中でも生きながらえたものは、このようにして可憐に、たくましく花を咲かせる。
寺田の言う「自然は過去の習慣に忠実」(『津浪と人間』より)というのは、
何も悪い意味ばかりとも言えないと、この桜に教わりました。

道はいよいよ火口に接近。周りの景色からも、黄土色の山肌へと変色。
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噴火から10年以上を経ても、このような噴気が何ヶ所からも出ている。
そして、この噴気が発する硫黄臭こそが、
この山肌から緑の気を奪っている張本人と思われる。

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台地に呑み込まれた生活の痕跡。
詳細は後述するが、2000年の噴火では、
金毘羅山のさらに西に当たる西山から最初に噴火している。
有珠山のような溶岩ドームを作る火山の溶岩は粘着質であるらしく、
それらは地下に長く居座り、巨大化する性質があるようなので、
もしかすると有珠山直下のマグマ溜まりは、今も広がり続けているのかもしれない。
(参考ページあり_http://www.asahi-net.or.jp/~ue3t-cb/bbs/special/sience_of_hotspring/sience_of_hotspring_3-1.htm)

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地盤の隆起により置き去りにされた重機と、露出した水道管。
噴煙を何千mも吹き上げるポテンシャルを持つ火山の圧倒的パワーの前には、
これらも子供のおもちゃのようにやすやすを持ち上げ、破壊できるということだろう。

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現在はカルデラ湖化した西山火口。
自らが噴き出した溶岩が冷えて固まってその口を塞ぎ、
今は平静を保っているが、洞爺湖も含めて有珠山周辺にはこう言った旧火口の沼が
多数存在しているのだ。

後編では、西山山頂から虻田側に降りて行く道すがらの様子を伝える。

この国に生きる、ということ ~①前提~

第2期最終回として、現代において非常に防災意識の高い有珠山周辺の事例を
取り上げて行こうと思う。
理由は非常に単純で、ワシが見に行ける場所がここだったというだけなのだが…。
今回の事例を語って行く上で前提となる、有珠山と人々の関わりなどについて
まずは書き進めて行くこととする。

1:洞爺湖と有珠山
(1)洞爺カルデラ(=洞爺湖)
 ・約10万年前に起きた数度の噴火によって形成
 ・そこに雨水が溜まった事によって湖となった
(2)有珠山
 ・約2万年前の噴火以来、数度の噴火によって成層火山
  (溶岩や火山灰などが積もって層を成してできる火山)となる
 ・約7000年前の噴火時に山頂部が爆発、山頂部に大きな陥没地形を生み出す
 ・その後休眠期間に入るが、1663年と1769年に噴火。
  このいずれかで、現在「小有珠」と呼ばれる溶岩ドームが形成されたとされる。
 ・1822年の噴火では大火砕流が発生。また、現在では「オガリ山」と呼ばれる
  溶岩ドームが形成された
 ・1853年の噴火では、現在「大有珠」と呼ばれる溶岩ドームが形成された
 ・1910年、山頂からではなく寄生火山の一つである金比羅山から噴火。
  現在では「明治新山」、もしくは「四十三山」と呼ばれる溶岩ドームが形成された。
  また、洞爺湖畔から温泉が湧出されたのが発見され、
  それが現在の洞爺湖温泉に発展して行く
 ・1944年の噴火も山頂からではなく、東の台地からのもので、
  そこの火口にできた溶岩ドームが現在「昭和新山」と呼ばれるもの。
 ・1977年の噴火は山頂からのもので、高度12000mまで吹き上がった噴煙が、
  道内119市町村に火山灰を降らせた。
  また、山頂部に現在「有珠新山」と呼ばれる溶岩ドームが形成された
 ・2000年の噴火では、西山や金比羅山から噴火。
  1910年の時とは違い洞爺湖畔は人が集まる場所になっていたため、
  最終的には16000人もの避難者を生んだが、幸いにして死者はゼロ

2:2000年噴火時の対応(=なぜ死者を出さずに済んだのか)
・噴火前に緊急火山情報が出せたこと
 =頻繁に噴火する山でデータ量が豊富。
  しかも、科学者の目から見て「予想しやすい山」
・前回(1977年)の記憶を持つ住民が多く、中には前々回(1944年)のそれを持つ人も…
 =対処法を熟知しており、それを継承する教育にも熱心
 =作成されたハザードマップを元に、危険地域を避けての避難誘導なども
  行き届いている
・(歴史的経緯を踏まえて)山の恩恵に預かっているという意識が高い
・以上より山と共存する覚悟ができた、意識の高い住民たちがしたたかに生活している、
 と言える

3:2000年噴火以降
(以下「平成12年11月6日開催 富士山火山防災シンポジウム PPT資料」より一部改)
~有珠山噴火災害復興計画~
・復旧、復興工事
 =道路交通網、公共施設、砂防施設etc.
・有珠山周辺地域の土地利用
 =ゾーニング、移転etc.
 →遺構を残しつつ緩衝域を設けるため
・復興対策
 =観光客誘致イベントの開催、雇用対策
・火山災害遺構の再評価
 =天然の素材を活用し、「火山、火山災害、自然災害」を学ぶ新たな体験学習ゾーン
  「エコミュージアム」の整備
 →「ジオパーク」認定へ
~火山との共生(今回の噴火対応から)~
(1)減災は普段の取組みから!!
 ・火山に対する正しい知識を持つ(寺田氏の言う「正しく怖がる」ために)
 ・地域の災害史を郷土史として認識(記憶を風化させないために)
 ・周辺の景観、温泉は「火山の恩恵」(これまでの歴史を踏まえて)
 ・現在の正四面体(住民、行政、マスメディア、科学者の相互連携)の構築
(2)観光地としてのあり方
 ・防災(安全)対策の構築=観光客を招く側の責任として、体制確立は必要
(3)(1)、(2)を踏まえて
 ・安全性をセールスポイントにしつつ、新しい防災観光地を創造
  →被害地を新たな観光資源としてポジティヴに捉える、したたかな発想

4:「ジオパーク」とは(Wikipediaより)
・ユネスコの支援による、地球科学的に見て重要な特徴を複数有するだけでなく、
 その他の自然遺産や文化遺産を有する地域が、
 それらの様々な遺産を有機的に結びつけて
 保全や教育、ツーリズムに利用しながら地域の持続的な経済発展を目指す仕組み。
・日本では、「洞爺湖有珠山」の他に「糸魚川」、「島原半島」、「山陰海岸」が
 世界ジオパークとして認定されている
・世界ジオパーク以外に、日本が独自に認定する日本ジオパーク(10ヶ所)がある

以上を基礎知識として、次回以降画像を織り交ぜて日本における
災害との付き合い方の一例を見て行きたく思う。

「正しく怖がる」ということ 小爆発二件(昭和10年 『文学』)

第2期最後の作品は、火山ネタです。
地震ともども、日本とは切っても切れない関係にある火山の研究を、
ようやく本格的に始めた頃、
寺田も念願の浅間山噴火に立ち会うわけですが…。

昭和10年8月4日の朝、寺田は信州軽井沢の千が滝グリーンホテル(注1)にいた
=3階の食堂で朝食を摂り、見晴らしのいい露台(=バルコニー)に出て、
 ゆっくり休息しようとタバコに点火したとたん…
→けたたましい爆発音が聞こえた
  (爆発音の特徴)
  ・「ドカン、ドカドカ、ドカーン」といったような不規則なリズムの爆音
  ・爆音が2、3秒続いた後に、「ゴー」とちょうど雷鳴の反響のような余韻が
   2、3秒続いた
  ・それが次第に減衰しながら南の山すその方に消えて行った
  ・敷いて似た音を探せば、「はっぱ(=発破)」、
   すなわちダイナマイトで岩山を破砕する音に近い
→浅間山が爆発したのだろうと思い、すぐにホテルの西側にる屋上露台へ出て、
 浅間山の方を眺めた
=あいにく山頂には密雲のヴェールがかかっていて何も見えない
→山頂の少し上の空が晴れていたので、噴煙が上がるだろうと思って見守っていると、
 間もなく特徴的なカリフラワー型の噴煙の円頂は山を覆う雲の上に
 もくもくと湧き上がって、みるみる直上
  (噴煙の特徴)
  ・上昇速度を目測の結果等から推算したところ、秒速50~60mほど
   =台風で観測される最大速度と同程度
  ・煙の柱の表面は、カリフラワー型に細かい凹凸が刻まれている
   =内部の擾乱渦動(≒不規則な対流運動?)の激しさを示す
  ・噴煙の色は黒灰色ではなく、煉瓦色に近い赤褐色
  ・高く上がるにつれて、頂上部分のカリフラワー型の粒立った凹凸が減少
   →上昇速度の現象に伴い擾乱渦動の衰えを示すと思われた
  ・擾乱渦動の衰えとともに、煙の色も白っぽくなり、形も積乱雲の頂部に似てきた
   →椎茸の笠を何枚か積み重ねたような恰好をしていて、その笠の縁が特に白い
   =その裏のまくれ込んだ内側が暗灰色にくま取られている
   =明らかに噴煙の頭で大きな ヴォーテックスリング(注2)が重畳していることを示す
  ・仰角から推算して高さ7~8kmまで登ったと思われる頃から、
   頂部の煙が東南になびいて、ちょうど自分たちの頭上の方向に流れてきた
→ホテルの帳場で勘定を済ませて玄関へ出てみたら、灰が降り始めていた
=爆発から15分ぐらい立った頃と思われる
→ふもとの方から迎えに来た自動車の前面のガラス窓に降灰がまばらな
 絣(かすり)模様を描いていた
  (下山途中で出会った光景)
  ・土方らの中には、目に入った灰を片手でこすりながら歩く者もあった
  ・荷車を引いた馬が異常に低く首を垂れて歩いているようにも見えた
  ・避暑客の往来も全く絶えているらしかった
(注1)千が滝グリーンホテル
 軽井沢町長倉にあったホテル。現存はしていない
(注2)ヴォーテックスリング=ボルテックスリング
 空気中でできる煙の輪のこと

※信州軽井沢と言えば、日本有数のリゾート地であると同時に、
 日本有数の活火山である浅間山のお膝元。
 その活発さと手頃な標高のせいか、後述する浅間山火山観測所は
 日本初の火山観測所として1933年に建てられている。
 寺田が直接タッチしているわけではないが、
 帝大地震研究所の付属施設として建てられているので、
 地震研究所付きの寺田も暇を見つけては軽井沢に顔を出していたことだろう。

寺田は(長倉から少し北にある)星野温泉に移動
  (星野温泉付近の状況)
  ・地面はもう相当色が変わるくらい灰が降り積もっている
  ・草原の上に干してあった合羽の上には、約1~2mmの厚さに積もっていた
  ・庭の檜葉(注3)の手入れをしていた植木屋たちは、
   何事もなかったかのように仕事を続行
  ・池の水がいつもと違って白濁し、その表面には小雨でも降っているかのように、
   細かい波紋が現れては消えていた
  ・空が暗くなるほどではないが、いつもの雨ではなく灰が降っているという意識が、
   周囲の見慣れた景色を一種不思議な凄涼(注4)の雰囲気を色どるように思われた
(注3)檜葉=この場合チャボヒバなどのようなヒノキの園芸品種のことを指す
(注4)凄涼=ぞっとするほどの寂しさ。凄惨を弱めた感じの表現と思われる。

爆発から約1時間後の8:30頃には、もう降灰は完全に止んでいた
→9:00頃に空を仰いで見たら、黒い噴煙はもう見られず、
 かわりに青白いタバコの薄煙のようなものが
 浅間山の方から東南の空に向かって緩やかに流れて行くのが見えた
→最初の爆発ではあんなに大量の水蒸気を噴出したのに、
 1時間半後にはもうあまり水蒸気を含まない、硫煙(≒亜硫酸ガス)のようなものを
 噴出しているという事実が、寺田にはひどく不思議に思われた
→事実関係から考えて最初に出るあの多量の水蒸気は、
 主として火口表層に含まれていた水から生じたもの
=爆発の原動力をなしたと思われる深層からのガスは案外水分が少ないのでは?
→研究を深める必要がある

火山灰を拾い上げ、20倍の双眼顕微鏡で観察
 ・一粒一粒の心核には多稜形(たくさんの角を持つ)の岩片があり、
  その表面には微細な灰粒が、たとえて言うなら杉の葉や霧氷のような形に付着
 ・灰粒はちょっと爪楊枝の先で触っただけでもすぐこぼれ落ちるほど柔らかい
  海綿状の集塊となって、心核の表面に付着し、被覆している
 ・(以上2点より)ただの灰の塊が降るばかりだと思っていた寺田にとっては、
  この事実が珍しく不思議に思われた
 ・灰の微粒と心核の石粒とでは、周囲の気流に対する落下速度が著しく違うから、
  両者は空中でたびたび衝突するのであろうが、それが再び反発しないで
  そのまま膠着して、こんな形に生長するためには、
  何かそれだけの機巧がなければならない
  →研究を深める必要がある
※後述するが、寺田が浅間山の噴火をみたのはこれが初めてらしい。
 噴火の態様についてあまり詳しく知らないところを見ると、
 実地で火山の噴火を見ること自体あまり無いのかも知れない。
 それとも、日本はこれほどの火山国でありながら、
 火山についての研究が昭和初期の段階に至ってもまだそれほど深まっていない
 のかも知れない

浅間観測所(注5)に行き、そこに詰めている水上理学士に話を聞くことに…
  (水上の話)
  ・今回の爆発は、同年4月20日の大爆発以来起こった多数の小爆発の中では、
   強度の等級で10番目ぐらい
  ・水上自身は慣れてしまっているせいか、
   寺田のように特別な感情を抱くことはなかった
   →ちなみに寺田は、自ら念願だったと書いているように
    浅間山の爆発を見たのは今回が初めて
→観測所は火口から7km離れた安全地帯だからそうなのだろうと寺田は思った
=火口近くにいたら、直径1mもあるような真っ赤に焼けた石が落下して来て、
 数分以内に命を失ったことは確実であろう
(注5)浅間観測所
  =先述したが帝大地震研究所付属浅間火山観測所のこと
   現在も当時と同じく峰の茶屋に存在する

10時過ぎの列車で帰京しようと沓掛駅(注6)で待ち合わせていたら、
今浅間山から降りて来たらしい学生を駅員がつかまえて爆発当時の様子を聞き取っていた
=彼らは爆発当時既に小浅間(注7)のふもとまで降りていたため、何ともなかった
→その時別の4人組が登山道を登りかけていたが、
 爆発していても平気で登って行ったのを目撃
→学生たちは「なんでもないですよ、大丈夫ですよ」と言った
→対する駅員は、「いや、そうではないです、そうではないです」と
 おごそか(≒深刻)な顔をしていた
→ものを怖がらな過ぎたり、怖がり過ぎたりすることはやさしいが、
 正当に怖がることはなかなかむつかしい事だと思われた
=○○の○○○○に対するものでも△△の△△△△△に対するものでも、
 やはりそんな気がする
(注6)沓掛駅=現在のJR中軽井沢駅のこと
(注7)小浅間
   =浅間山の寄生火山のひとつ。標高1655m。
    ちなみに浅間山の標高は2568m。

※一時期池上彰が結構使っていた「正しく怖がること」の元ネタとも言える一節。
 対義的な語としては、「盲、蛇に怖じず」(知らなければ怖いと思わない)や、
 「羹に懲りて膾を吹く」(失敗に懲りて過剰に用心すること)がある。
 ただし、今節に出てくる学生たちの場合は、「慢心がほころびを生む」類だと思われる。
 その後の伏字部分に関しては、昭和10年という時節柄世界情勢を踏まえたものとも、
 読者の思うものをお任せに想像させる意図があるとも考えられているが、
 現代のような情報化時代になっても十分通用する言葉であるということは、
 寺田氏の言うようにやはり簡単なことではないと言うことなのだろう。

8月17日午後5時30分頃、また浅間山爆発
→当時寺田は、星野温泉(注8)別館の南向きのベランダで顕微鏡を覗いていたが、
 爆音にも気づかず、また気波(=衝撃波?)も感じなかった
→本館にいた水上理学士は、障子に当たって揺れる気波を感知したらしい
→丘の上の別荘にいた人には、爆音も聞こえたし、
 その後に岩の崩れ落ちるようなものすごい物音がしばらく持続して鳴り響くのも
 聞いたらしい
→あいにく山が雲で隠れていて、星野の方からは噴煙は見えなかったし、
 降灰も認められず
→翌日の東京新聞で見ると…
 ・「4月20日以来最大の爆発」、「噴煙が6里の高さまで昇った」という報道
  →寺田は、「信じられない」「素人のゴシップをそのまま伝えた、いつもの新聞のウソ」
   と切り捨てた
 ・浅間山の北に当たる御代田や小諸では降灰があった
  →風向きのせいとはいえ珍しいこと
→北軽井沢で目撃した人々の話では…
  ・噴煙がよく見えた
  ・岩塊の吹き上げられるのもいくつか認められた
  ・煙柱をつづる放電現象(=火山雷)も明瞭に見られた
  ・爆音も相当に強く明瞭に聞かれ、その音の性質は寺田が8月4日に千が滝で
   聞いたものと同種のもの
  ・噴煙の達した高さは目撃者の仰角の記憶と山への距離とから判断して、
   やはり約10km程度と推算される
   →1里が4km弱であることを考えると、新聞記事では噴煙が23.5km強上がっている
    計算になり、やはり記事は誇張と考えられる
  ・噴出の始まった頃は、火山の頂を覆っていた雲が間もなく消散して、
   山頂がはっきり見えてきた
   →偶然の一致かも知れないが、爆発の影響とも考えられないことはない
   =今後注意すべき、面白い現象の一つ
→千が滝グリーンホテルでは、この日の爆音は8月4日のに比べて比較にならないほど
 弱く、気がつかなかった人も多かったらしい
(注8)星野温泉
   =ココでは温泉街全体のことではなく、直後の「別館」と言う文言から
    星野温泉ホテルのこと。
    現在星野温泉ホテルは一時閉館の後リニューアルされ、
    「星のや 軽井沢」として営業中である。

以上のような火山の爆音の異常伝播について
=大森博士(注9)の調査以来、藤原博士(注10)の理論的研究をはじめとして、
 内外学者の詳しい研究がいろいろある
→しかし、こんなに火山に近い小区域で、こんなに音の強度に異同があるのはむしろ意外
=ここにも未来の学者に残された問題がありそう
(注9)大森博士=大森房吉
  ・「大森式地震計」や、余震に関する「大森公式」などを作り、
   日本の地震学界において指導的な地位にあった東京帝大教授。
  ・地震研究所の前身とも言える「地震予防調査会」の幹事を長らく務める
  ・1923年、脳腫瘍にて死去。享年55
(注10)藤原博士=藤原咲平
  ・東京帝大卒業後中央気象台(現在の気象庁)に入る
  ・「音の異常伝播の研究」で理学教授となり、1920年にはその研究により
   帝大学士院賞を受賞。
  ・1922年に中央気象台測候技術官養成所(現気象大学校)主事に就任する一方、
   1924年、寺田寅彦の後任として東京帝大教授に就任する
  ・戦時中に風船爆弾の研究に携わり、戦後公職追放の憂き目に会うが、
   野に下っても「お天気博士」と呼ばれ、啓蒙活動を精力的に行い、
   現在の気象用語の基礎を作ったと言われる人。
  ・1950年、享年65歳にて死去。
  ・新田次郎(作家、甥)や藤原正彦(数学者、『国家の品格』著者、大甥)が親族にいる

※少なくともこの時点では、火山国である日本も火山に関する研究において、
 まだまだ未開拓点が多かったと言わざるを得ないだろう。
 日本初の火山観測所が作られたのが今作が書かれたわずか2年前ということを
 考えると、繰り返しになるが立ち遅れていると言わざるを得ないだろう。
 明治維新以来(幕府内での政争も含めれば300年以上)、
 政治部内での足の引っ張り合いばかりで、
 防災に関してはあまり目が行き届いてなかったと考えるべきで、
 その辺りの政治部内の思考回路はいっこうに進歩がないと言える。
 寺田も、その辺りをもどかしく思っていたのかもしれない。

この日、峰の茶屋近く(≒浅間観測所近辺)で採集した降灰の標本というのを、
植物学者のK氏に見せてもらった
=霧の中を降ってきたそうで、みなぐしょぐしょに濡れていた
=そのせいか、8月4日の降灰のような特異な海綿状の灰の被覆物は見られず
→あるいは、時によって降灰の構造自体が違うのかもしれないと思われた
翌18日午後、峰の茶屋から千が滝グリーンホテルへ降りる専用道路を歩いていたら、
極めてわずかな灰が降ってきた
=降るのは見えないが、時々目の中に入って刺激するので気付いた
=子供の服の白い襟にかすかな灰色の斑点を示す程度のもので、
 心核の石粒などは見えず
→ひと口に降灰と言っても、降る時と場所とでこんなにいろいろの形態の変化を示す
=軽井沢一帯を1m以上の厚さに覆っているあのえんどう豆大の軽石の粒も、
 普通の記録ではやはり降灰の一種と呼ばれるのだろう
→毎回の爆発でも、単にその全エネルギーに差などがあるだけでなく、
 その爆発の型にもかなりいろいろな差別があるらしい
→しかし、それが新聞に限らず世人の言葉ではみなただの「爆発」になってしまう
=言葉というものはまったく調法(=重宝)なものであるが、一方から考えると実に頼りない
  (例)人殺し、心中
→しかし、火山の爆発だけは今にもう少し火山に関する研究が進んだら、
 爆発の型と等級の分類ができて、「今日のはA型第3級」とか「昨日のはB型第5級」
 とかいう記載ができるようになる見込み
→「S型36号の心中」や「P型247号の人殺し」が新聞で報ぜられる時代も
 来ないとは限らないが、その時代における「文学」がどんなものになるであろうかを
 想像することは困難
→少なくとも、現代の雑誌の「創作欄」を飾っているような数多の粗雑さを
 成立条件とする文学は、なくなるかもしれないという気がする
※マスコミが類型的に伝えてしまうのは今も昔も変わらないことのようで、
 それは紙面のスペースの問題や時間の枠の問題とも関わってくるので、
 致し方ない面は当然ある。
 そういう意味で言えば現在は、
 ネットのように逐次掘り下げられるメディアがあるので救われる面もあるが、
 誰でも使えるわけではないので、
 メディア側もうまい住み分けを模索すべき時がきているのかもしれない。
※地震に「プレート型」や「直下型」といった類型があるように、
 火山にも性質があり、人殺しや心中にも類型や背景の事情がさまざまある。
 「S型」や「P型」といった無機的な類型ではないにしても、
 そういった類型は憶測込みで現在ではさまざまなされている
 (台風のような、原則ナンバリングのみという例もあるが…)。
 類型化は結局物事の本質を見えにくくしているのは事実であろう。
 ひと口に「怨恨による殺人」と言っても、身内なのか単に関係者なのか、
 はたまた逆恨みに近いことなのかは、
 結局事件一つ一つを掘り下げて行く必要があるわけで、
 メディア側の都合で類型化が進むことはあっても、
 それでは受け手のニーズにはやはり応えられないだろうと思われる。
※最後に寺田は、文学界に対して類型化がもたらす危機についてさらっと書いている。
 類型化が粗雑さを排除する方向に向かうと考えるべきなんだろうが、
 では「類型化」がどのようにして「粗雑さ」を排除するのだろうか。
 それに関する著作もあるようなので、この件に関しては後日に措
くとする。

次回は、第2期総括に代えて、5月17日に「洞爺湖有珠山ジオパーク」を
観に行った時の様子を絡めて、
写真を交えつつダラダラやって行こうと思います。
 

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