第2期最後の作品は、火山ネタです。
地震ともども、日本とは切っても切れない関係にある火山の研究を、
ようやく本格的に始めた頃、
寺田も念願の浅間山噴火に立ち会うわけですが…。
昭和10年8月4日の朝、寺田は信州軽井沢の千が滝グリーンホテル(注1)にいた
=3階の食堂で朝食を摂り、見晴らしのいい露台(=バルコニー)に出て、
ゆっくり休息しようとタバコに点火したとたん…
→けたたましい爆発音が聞こえた
(爆発音の特徴)
・「ドカン、ドカドカ、ドカーン」といったような不規則なリズムの爆音
・爆音が2、3秒続いた後に、「ゴー」とちょうど雷鳴の反響のような余韻が
2、3秒続いた
・それが次第に減衰しながら南の山すその方に消えて行った
・敷いて似た音を探せば、「はっぱ(=発破)」、
すなわちダイナマイトで岩山を破砕する音に近い
→浅間山が爆発したのだろうと思い、すぐにホテルの西側にる屋上露台へ出て、
浅間山の方を眺めた
=あいにく山頂には密雲のヴェールがかかっていて何も見えない
→山頂の少し上の空が晴れていたので、噴煙が上がるだろうと思って見守っていると、
間もなく特徴的なカリフラワー型の噴煙の円頂は山を覆う雲の上に
もくもくと湧き上がって、みるみる直上
(噴煙の特徴)
・上昇速度を目測の結果等から推算したところ、秒速50~60mほど
=台風で観測される最大速度と同程度
・煙の柱の表面は、カリフラワー型に細かい凹凸が刻まれている
=内部の擾乱渦動(≒不規則な対流運動?)の激しさを示す
・噴煙の色は黒灰色ではなく、煉瓦色に近い赤褐色
・高く上がるにつれて、頂上部分のカリフラワー型の粒立った凹凸が減少
→上昇速度の現象に伴い擾乱渦動の衰えを示すと思われた
・擾乱渦動の衰えとともに、煙の色も白っぽくなり、形も積乱雲の頂部に似てきた
→椎茸の笠を何枚か積み重ねたような恰好をしていて、その笠の縁が特に白い
=その裏のまくれ込んだ内側が暗灰色にくま取られている
=明らかに噴煙の頭で大きな ヴォーテックスリング(注2)が重畳していることを示す
・仰角から推算して高さ7~8kmまで登ったと思われる頃から、
頂部の煙が東南になびいて、ちょうど自分たちの頭上の方向に流れてきた
→ホテルの帳場で勘定を済ませて玄関へ出てみたら、灰が降り始めていた
=爆発から15分ぐらい立った頃と思われる
→ふもとの方から迎えに来た自動車の前面のガラス窓に降灰がまばらな
絣(かすり)模様を描いていた
(下山途中で出会った光景)
・土方らの中には、目に入った灰を片手でこすりながら歩く者もあった
・荷車を引いた馬が異常に低く首を垂れて歩いているようにも見えた
・避暑客の往来も全く絶えているらしかった
(注1)千が滝グリーンホテル
軽井沢町長倉にあったホテル。現存はしていない
(注2)ヴォーテックスリング=ボルテックスリング
空気中でできる煙の輪のこと
※信州軽井沢と言えば、日本有数のリゾート地であると同時に、
日本有数の活火山である浅間山のお膝元。
その活発さと手頃な標高のせいか、後述する浅間山火山観測所は
日本初の火山観測所として1933年に建てられている。
寺田が直接タッチしているわけではないが、
帝大地震研究所の付属施設として建てられているので、
地震研究所付きの寺田も暇を見つけては軽井沢に顔を出していたことだろう。
寺田は(長倉から少し北にある)星野温泉に移動
(星野温泉付近の状況)
・地面はもう相当色が変わるくらい灰が降り積もっている
・草原の上に干してあった合羽の上には、約1~2mmの厚さに積もっていた
・庭の檜葉(注3)の手入れをしていた植木屋たちは、
何事もなかったかのように仕事を続行
・池の水がいつもと違って白濁し、その表面には小雨でも降っているかのように、
細かい波紋が現れては消えていた
・空が暗くなるほどではないが、いつもの雨ではなく灰が降っているという意識が、
周囲の見慣れた景色を一種不思議な凄涼(注4)の雰囲気を色どるように思われた
(注3)檜葉=この場合チャボヒバなどのようなヒノキの園芸品種のことを指す
(注4)凄涼=ぞっとするほどの寂しさ。凄惨を弱めた感じの表現と思われる。
爆発から約1時間後の8:30頃には、もう降灰は完全に止んでいた
→9:00頃に空を仰いで見たら、黒い噴煙はもう見られず、
かわりに青白いタバコの薄煙のようなものが
浅間山の方から東南の空に向かって緩やかに流れて行くのが見えた
→最初の爆発ではあんなに大量の水蒸気を噴出したのに、
1時間半後にはもうあまり水蒸気を含まない、硫煙(≒亜硫酸ガス)のようなものを
噴出しているという事実が、寺田にはひどく不思議に思われた
→事実関係から考えて最初に出るあの多量の水蒸気は、
主として火口表層に含まれていた水から生じたもの
=爆発の原動力をなしたと思われる深層からのガスは案外水分が少ないのでは?
→研究を深める必要がある
火山灰を拾い上げ、20倍の双眼顕微鏡で観察
・一粒一粒の心核には多稜形(たくさんの角を持つ)の岩片があり、
その表面には微細な灰粒が、たとえて言うなら杉の葉や霧氷のような形に付着
・灰粒はちょっと爪楊枝の先で触っただけでもすぐこぼれ落ちるほど柔らかい
海綿状の集塊となって、心核の表面に付着し、被覆している
・(以上2点より)ただの灰の塊が降るばかりだと思っていた寺田にとっては、
この事実が珍しく不思議に思われた
・灰の微粒と心核の石粒とでは、周囲の気流に対する落下速度が著しく違うから、
両者は空中でたびたび衝突するのであろうが、それが再び反発しないで
そのまま膠着して、こんな形に生長するためには、
何かそれだけの機巧がなければならない
→研究を深める必要がある
※後述するが、寺田が浅間山の噴火をみたのはこれが初めてらしい。
噴火の態様についてあまり詳しく知らないところを見ると、
実地で火山の噴火を見ること自体あまり無いのかも知れない。
それとも、日本はこれほどの火山国でありながら、
火山についての研究が昭和初期の段階に至ってもまだそれほど深まっていない
のかも知れない
浅間観測所(注5)に行き、そこに詰めている水上理学士に話を聞くことに…
(水上の話)
・今回の爆発は、同年4月20日の大爆発以来起こった多数の小爆発の中では、
強度の等級で10番目ぐらい
・水上自身は慣れてしまっているせいか、
寺田のように特別な感情を抱くことはなかった
→ちなみに寺田は、自ら念願だったと書いているように
浅間山の爆発を見たのは今回が初めて
→観測所は火口から7km離れた安全地帯だからそうなのだろうと寺田は思った
=火口近くにいたら、直径1mもあるような真っ赤に焼けた石が落下して来て、
数分以内に命を失ったことは確実であろう
(注5)浅間観測所
=先述したが帝大地震研究所付属浅間火山観測所のこと
現在も当時と同じく峰の茶屋に存在する
10時過ぎの列車で帰京しようと沓掛駅(注6)で待ち合わせていたら、
今浅間山から降りて来たらしい学生を駅員がつかまえて爆発当時の様子を聞き取っていた
=彼らは爆発当時既に小浅間(注7)のふもとまで降りていたため、何ともなかった
→その時別の4人組が登山道を登りかけていたが、
爆発していても平気で登って行ったのを目撃
→学生たちは「なんでもないですよ、大丈夫ですよ」と言った
→対する駅員は、「いや、そうではないです、そうではないです」と
おごそか(≒深刻)な顔をしていた
→ものを怖がらな過ぎたり、怖がり過ぎたりすることはやさしいが、
正当に怖がることはなかなかむつかしい事だと思われた
=○○の○○○○に対するものでも△△の△△△△△に対するものでも、
やはりそんな気がする
(注6)沓掛駅=現在のJR中軽井沢駅のこと
(注7)小浅間
=浅間山の寄生火山のひとつ。標高1655m。
ちなみに浅間山の標高は2568m。
※一時期池上彰が結構使っていた「正しく怖がること」の元ネタとも言える一節。
対義的な語としては、「盲、蛇に怖じず」(知らなければ怖いと思わない)や、
「羹に懲りて膾を吹く」(失敗に懲りて過剰に用心すること)がある。
ただし、今節に出てくる学生たちの場合は、「慢心がほころびを生む」類だと思われる。
その後の伏字部分に関しては、昭和10年という時節柄世界情勢を踏まえたものとも、
読者の思うものをお任せに想像させる意図があるとも考えられているが、
現代のような情報化時代になっても十分通用する言葉であるということは、
寺田氏の言うようにやはり簡単なことではないと言うことなのだろう。
8月17日午後5時30分頃、また浅間山爆発
→当時寺田は、星野温泉(注8)別館の南向きのベランダで顕微鏡を覗いていたが、
爆音にも気づかず、また気波(=衝撃波?)も感じなかった
→本館にいた水上理学士は、障子に当たって揺れる気波を感知したらしい
→丘の上の別荘にいた人には、爆音も聞こえたし、
その後に岩の崩れ落ちるようなものすごい物音がしばらく持続して鳴り響くのも
聞いたらしい
→あいにく山が雲で隠れていて、星野の方からは噴煙は見えなかったし、
降灰も認められず
→翌日の東京新聞で見ると…
・「4月20日以来最大の爆発」、「噴煙が6里の高さまで昇った」という報道
→寺田は、「信じられない」「素人のゴシップをそのまま伝えた、いつもの新聞のウソ」
と切り捨てた
・浅間山の北に当たる御代田や小諸では降灰があった
→風向きのせいとはいえ珍しいこと
→北軽井沢で目撃した人々の話では…
・噴煙がよく見えた
・岩塊の吹き上げられるのもいくつか認められた
・煙柱をつづる放電現象(=火山雷)も明瞭に見られた
・爆音も相当に強く明瞭に聞かれ、その音の性質は寺田が8月4日に千が滝で
聞いたものと同種のもの
・噴煙の達した高さは目撃者の仰角の記憶と山への距離とから判断して、
やはり約10km程度と推算される
→1里が4km弱であることを考えると、新聞記事では噴煙が23.5km強上がっている
計算になり、やはり記事は誇張と考えられる
・噴出の始まった頃は、火山の頂を覆っていた雲が間もなく消散して、
山頂がはっきり見えてきた
→偶然の一致かも知れないが、爆発の影響とも考えられないことはない
=今後注意すべき、面白い現象の一つ
→千が滝グリーンホテルでは、この日の爆音は8月4日のに比べて比較にならないほど
弱く、気がつかなかった人も多かったらしい
(注8)星野温泉
=ココでは温泉街全体のことではなく、直後の「別館」と言う文言から
星野温泉ホテルのこと。
現在星野温泉ホテルは一時閉館の後リニューアルされ、
「星のや 軽井沢」として営業中である。
以上のような火山の爆音の異常伝播について
=大森博士(注9)の調査以来、藤原博士(注10)の理論的研究をはじめとして、
内外学者の詳しい研究がいろいろある
→しかし、こんなに火山に近い小区域で、こんなに音の強度に異同があるのはむしろ意外
=ここにも未来の学者に残された問題がありそう
(注9)大森博士=大森房吉
・「大森式地震計」や、余震に関する「大森公式」などを作り、
日本の地震学界において指導的な地位にあった東京帝大教授。
・地震研究所の前身とも言える「地震予防調査会」の幹事を長らく務める
・1923年、脳腫瘍にて死去。享年55
(注10)藤原博士=藤原咲平
・東京帝大卒業後中央気象台(現在の気象庁)に入る
・「音の異常伝播の研究」で理学教授となり、1920年にはその研究により
帝大学士院賞を受賞。
・1922年に中央気象台測候技術官養成所(現気象大学校)主事に就任する一方、
1924年、寺田寅彦の後任として東京帝大教授に就任する
・戦時中に風船爆弾の研究に携わり、戦後公職追放の憂き目に会うが、
野に下っても「お天気博士」と呼ばれ、啓蒙活動を精力的に行い、
現在の気象用語の基礎を作ったと言われる人。
・1950年、享年65歳にて死去。
・新田次郎(作家、甥)や藤原正彦(数学者、『国家の品格』著者、大甥)が親族にいる
※少なくともこの時点では、火山国である日本も火山に関する研究において、
まだまだ未開拓点が多かったと言わざるを得ないだろう。
日本初の火山観測所が作られたのが今作が書かれたわずか2年前ということを
考えると、繰り返しになるが立ち遅れていると言わざるを得ないだろう。
明治維新以来(幕府内での政争も含めれば300年以上)、
政治部内での足の引っ張り合いばかりで、
防災に関してはあまり目が行き届いてなかったと考えるべきで、
その辺りの政治部内の思考回路はいっこうに進歩がないと言える。
寺田も、その辺りをもどかしく思っていたのかもしれない。
この日、峰の茶屋近く(≒浅間観測所近辺)で採集した降灰の標本というのを、
植物学者のK氏に見せてもらった
=霧の中を降ってきたそうで、みなぐしょぐしょに濡れていた
=そのせいか、8月4日の降灰のような特異な海綿状の灰の被覆物は見られず
→あるいは、時によって降灰の構造自体が違うのかもしれないと思われた
翌18日午後、峰の茶屋から千が滝グリーンホテルへ降りる専用道路を歩いていたら、
極めてわずかな灰が降ってきた
=降るのは見えないが、時々目の中に入って刺激するので気付いた
=子供の服の白い襟にかすかな灰色の斑点を示す程度のもので、
心核の石粒などは見えず
→ひと口に降灰と言っても、降る時と場所とでこんなにいろいろの形態の変化を示す
=軽井沢一帯を1m以上の厚さに覆っているあのえんどう豆大の軽石の粒も、
普通の記録ではやはり降灰の一種と呼ばれるのだろう
→毎回の爆発でも、単にその全エネルギーに差などがあるだけでなく、
その爆発の型にもかなりいろいろな差別があるらしい
→しかし、それが新聞に限らず世人の言葉ではみなただの「爆発」になってしまう
=言葉というものはまったく調法(=重宝)なものであるが、一方から考えると実に頼りない
(例)人殺し、心中
→しかし、火山の爆発だけは今にもう少し火山に関する研究が進んだら、
爆発の型と等級の分類ができて、「今日のはA型第3級」とか「昨日のはB型第5級」
とかいう記載ができるようになる見込み
→「S型36号の心中」や「P型247号の人殺し」が新聞で報ぜられる時代も
来ないとは限らないが、その時代における「文学」がどんなものになるであろうかを
想像することは困難
→少なくとも、現代の雑誌の「創作欄」を飾っているような数多の粗雑さを
成立条件とする文学は、なくなるかもしれないという気がする
※マスコミが類型的に伝えてしまうのは今も昔も変わらないことのようで、
それは紙面のスペースの問題や時間の枠の問題とも関わってくるので、
致し方ない面は当然ある。
そういう意味で言えば現在は、
ネットのように逐次掘り下げられるメディアがあるので救われる面もあるが、
誰でも使えるわけではないので、
メディア側もうまい住み分けを模索すべき時がきているのかもしれない。
※地震に「プレート型」や「直下型」といった類型があるように、
火山にも性質があり、人殺しや心中にも類型や背景の事情がさまざまある。
「S型」や「P型」といった無機的な類型ではないにしても、
そういった類型は憶測込みで現在ではさまざまなされている
(台風のような、原則ナンバリングのみという例もあるが…)。
類型化は結局物事の本質を見えにくくしているのは事実であろう。
ひと口に「怨恨による殺人」と言っても、身内なのか単に関係者なのか、
はたまた逆恨みに近いことなのかは、
結局事件一つ一つを掘り下げて行く必要があるわけで、
メディア側の都合で類型化が進むことはあっても、
それでは受け手のニーズにはやはり応えられないだろうと思われる。
※最後に寺田は、文学界に対して類型化がもたらす危機についてさらっと書いている。
類型化が粗雑さを排除する方向に向かうと考えるべきなんだろうが、
では「類型化」がどのようにして「粗雑さ」を排除するのだろうか。
それに関する著作もあるようなので、この件に関しては後日に措くとする。
次回は、第2期総括に代えて、5月17日に「洞爺湖有珠山ジオパーク」を
観に行った時の様子を絡めて、
写真を交えつつダラダラやって行こうと思います。
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