「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-(31)

<30>まとめ

今朝、「スーパーモーニングスペシャル」(テレビ朝日系)で

小泉スペシャルをやっていた。

そこに世耕参議院議員が出ていて、ずいぶんいろいろとしゃべっていたのだが、

見ているうちにだんだん彼がゲッペルス宣伝相みたいに思えてきてしまった。

そして彼が番組中に盛んに言っていた

「小泉首相はもともと演説の名人」と言う言葉が気になった。

ヒトラーとコイズミ、その顕われ方こそ違えどもともに演説の名人であったのだ。

この二人には、時代の隔たりがあって演説の方法論に違いはある。

ヒトラーは、ずいぶん研究されたようにその声の周波数に

人を惹きつけるものがあったと言われている。

一方のコイズミも、テレビというメディアを意識した「サウンドバイト」という手法を

自然に用いてテレビ、新聞、雑誌と言ったメディアを

盛んに利用してその力を伸ばしていった。

ヒトラーという優秀な素材にゲッペルスが化合したことで第3帝国は顕われ、

コイズミにもまた世耕が化合することで総選挙大勝という結果を招来したわけである。

そう考えると「ヒトラー 最期の12日間」の主人公だったヒトラーの女性秘書なんて、

小泉チルドレンに被らないでもない。

戦争末期であるにもかかわらずヒトラーに妄信する彼女たちは、

まさにもうすぐ政治を投げ出して隠棲しようとする小泉に

盲従する小泉チルドレンそのものと言えなくもない。

そして、この二人を生み出したのが他ならぬ大衆であることを決して忘れてはならない。

この二人を選んだのが、ともに政治にもともと興味のない層であった事は興味深い。

そういった層を政治に振り向かせたことは、確かに彼らの功績であったかもしれない。

しかし、悲しいかな彼らには政治に対してバランスある視点を持ち得なかった。

ヒトラーの時代には不遇な対外環境がそうさせ、

現代においてはマスコミが扱いやすい情報を

結果的に偏向して流してしまったがゆえにコイズミに傾斜してしまった。

政治を良くするのは、結局民衆の務めである。

民主主義の爛熟した現代においては、

一個の巨大な個性をもってしても政治を浄化するのは生易しいことではない。

ましてやコイズミは、首相就任当時から「改革」「改革」と唱え続け、

いまだどう考えても道半ばであるのに、その座を投げ捨てようとしている。

小泉チルドレンの数の力を使って院政を張るのか、

それとも徳川慶喜のように政治から身を引いて趣味の世界に生きるのか。

いずれにしても、あまりにも無責任と言わざるを得ない。

そこまで「改革」「改革」と唱えるならば、

「改革」に殉ずる覚悟でその座に居座ればいいじゃないか。

マジ、やる気を見せろ、コイズミ!

「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-(30)

<29>選挙と民衆

ヒトラー内閣成立~全権委任法の件については、

以前の内容と重複するのでここでは触れないこととする。

今回は、あれほど危険な思想を振りまき続けてきたヒトラーを、

なぜ民衆は支持してしまったのかについて。

まず、1933年当時の状況である。

議会では、長らく少数与党による混乱状況が続いていたため、

第1党たるナチスによる議会運営によって議会が安定化することに期待したのであろう。

裏を返せば、民衆は比例代表制選挙に対して否定的なのであろう。

いかに票の平等が確立されるとしても、

やはり民衆は顔の見えない候補に票を入れるのには抵抗があるのであろう。

これは、日本でも見られる傾向であろう。

特に、タイゾーの当選以来「比例代表で選ばれた議員は格下だ」

みたいな論調が選挙後に強まった。

日本の特殊な選挙制度では特に比例代表が敗者復活戦みたいな

制度になってしまっているので、この傾向は強いのであろう。

では、なぜワイマール共和国はかたくなに選挙制度を変えようとしなかったのか?

それは、まず革命を起こしたのが社会民主党ら社会主義者であったからであろう。

彼らは、本質としてはともかく民衆に対しては平等であることを訴え続けていた。

比例代表制はそれを具現する上で絶好だったのであろう。

また、社会主義者は新たなカリスマの出現を危惧していたのかもしれない。

例えば、「鉄血宰相」と呼ばれたビスマルクがこの時代に現れていたならば、

社会主義者には出る幕が無かったかもしれない。

しかし、社会主義者の掲げる民主主義は、

皮肉にも比例代表制のせいであまりにも迂遠な政治体系となってしまい、

それが民衆を失望させ、

残された可能性の中から最もアピールの強いナチスを

民衆に選ばせる結果になってしまったのではなかろうか。

これは、日本も同じことではなかろうか。

汚職にまみれた旧来の政治家に嫌気のさした国民が選んだのは、

何度も総裁選に挑戦し、効果的(と思われる)フレーズを連発する

汚職にまみれていない(単にばれていないだけなのかもしれないが)

小泉に期待をかけたのかもしれない。

彼によって、少なくとも旧来の政党政治(正確には政党内政党政治というべきか)は

ほぼ完全に崩壊した。

しかし、ヒトラーも小泉も声高に民族主義、国家主義を唱える。

その行き着く先は、いったい何処なのだろうか・・・。

「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-(29)

<28>国民国家を否定する国民と、それに乗るナチス

前回も書いたように、民衆は既に政党政治に対して失望していた。

彼らにとっては、ちっとも自分たちの生活が良くならないのに、

ただいたずらに選択を迫ってくる政府を無能と感じていたのかもしれない。

それに対してヒトラーは、後々まで主張し続ける「民族共同体」構想の中で、

ナチスが社会的、宗教的、地域的対立を国民の意思のもとに排除すると宣言していた。

また、ヒトラーは国家国民党や中央党の活動もまたナチスに協力いているのだと宣伝した。

しかし、ナチスの支持がそれによってそれほど伸びることは無かった。

ヒトラーの野心が見え透いていたからである。

彼は政党政治を否定しながら、ナチス内閣による全権掌握を志向していたからである。

一方でヒンデンブルクは、まだヒトラーを内閣に引き込もうと考えていた。

そうでなくては、国会運営に支障をきたすからである。

しかし、政府は共産党の攻撃を受けることになる。

共産党は、シュライヒャー内閣を「ファシスト内閣」であると非難し、

内閣不信任案上程にも賛成した。

しかし、彼らにはヴィジョンが欠けていた。

その面においてナチスよりも一歩劣っており、それゆえに後に敗北するのである。

政府は懸命に国民の支持を繋ぎとめようとし、労働者政策に注力した。

しかし、それは資本家階級の乖離を招いていた。

パーペン前首相は、1933年初頭にヒトラーと独断で極秘会見を持った。

そこでパーペンは、軽率にももはやシュライヒャー内閣は国民ばかりではなく、

大統領からの支持も受けていないと口を滑らせてヒトラーの入閣を促した。

もちろんシュライヒャーはパーペンを非難したが、

パーペンが言ったようにもはやシュライヒャーは孤立状態にあった。

パーペンは、ヒンデンブルクに対して独断で動いたことに関しては謝罪したろうが、

それでもヒトラーを首相に迎えることはヒンデンブルクの意向に合致すると考えて、

ヒンデンブルクにヒトラー内閣の達成を勧めた。

そして、シュライヒャーもついにこの苦境に耐えかねた。

彼もまた、以前はヒトラーを一時は支持していたわけであるし、

議会運営のためにはナチスの「数の力」は必要不可欠であることを

充分すぎるほど理解していた。

そしてヒンデンブルクもまた、そういった側近たちの進めについには屈服した。

1933年1月28日のシュライヒャー内閣総辞職を受けて大統領は、

ヒトラーに組閣と議会多数派工作を命じ、

1月30日には中央党との連立内閣を組閣、

ヒトラーはついにワイマール共和国のナンバー2にまで上り詰めた。

「全権委任法」成立まで、あと2ヶ月を切っていた。

「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-(28)

<27>国会中心主義の陥穽

まずは、1932年11月の国民議会議員選挙の結果から。

比較対象は、同年7月の結果です。

社会民主党     133→121

中央党         70→ 70

民主党         4→  2

国家人民党      37→ 52

ドイツ人民党      7→ 11

共産党        89→100

バイエルン人民党  22→ 20

ナチス        230→196

この選挙は、まず投票率が低かった。

年に2度の選挙ということもあり、もはや国民もうんざりしていた。

ナチスは、支持基盤が大きく揺らいだことなどもあって

第1党を維持したものの30議席以上も減らしてしまう。

また、穏健社会主義政党の社会民主党から、

急進社会主義の共産党へ票が移った。

現政権への失望は極に達していたといってもいい。

もはや、今まで通りの連立政権では多数派の確保は不可能であり、

議会運営の観点からナチス、中央党、共産党のいずれかを

政権に引き込まざるを得ない状況であった。

しかし、パーペン首相はそのいずれも拒否したため、

ヒンデンブルク大統領は側近のシュライヒャーを介してパーペンに因果を含めて

首相を変えようと考えた。

目標は、もちろん前選挙後にも候補に上がっていたヒトラーであった。

しかし、ヒトラーは条件をつけた。

以前もこの中で書いた「全権委任法」に大統領も同意するように通告したのだ。

ヒトラーは、政権の弱みに付け込んで全権の掌握を目指したのだ。

ヒンデンブルクも、さすがにそこまでの権限をヒトラーに与えるわけにはいなかった。

その後、中央党にも連立政権参加を呼びかけたがそれにも失敗し、

パーペンを再び首相の座に据えるわけにもいかず、八方塞がりになった。

やむなくヒンデンブルクは、側近よりシュライヒャーを首相に選んで

新内閣を組閣させざるをえなかった。

少数与党の議席がさらに先細るなか、

国民の失望は極右のナチスと極左の共産党、保守派の中央党という、

強力な野党3党に期待をかけていた。

この時点で、ワイマール共和国は有名無実となっていたのかもしれない。

おそらく、ナチスが止めを刺すまでも無く、

「ドイツ社会主義人民共和国」とか、中央党首班による新生「ドイツ共和国」が

ワイマール体勢の屍を越えて生まれていたのだろうから・・・。

「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-(27)

<26>権力とは争奪されるもの…

選挙の結果を受けて、ヒトラーらナチスの主要メンバーを入閣させるべきか否かについて、

大統領とその側近たちは協議を重ねた。

結果、ヒトラーを副首相とし、他の幹部も何人か入閣させようと考えた。

8月13日、ヒトラーらナチス首脳と、パーペン首相ら側近の会談が行われた。

しかし、ヒトラーが欲したのは首相の地位であって副首相ではなかった。

パーペンらが構想したナチスをコントロールしようとする意図は、見事に打ち砕かれた。

ヒトラーはこの会見のすぐ後に、ヒンデンブルク大統領とも会談を行ったが、

ヒンデンブルクからもパーペン以上の回答を得ることは出来なかった。

このとき、突撃隊(SA)も親衛隊(SS)も直接行動を起こそうとしていたが、

党首脳はひとまずそれを推しとどめた。

しかし、ヒトラーもこの仕打ちには怒りを覚えていた。

会談の9日後、共産党員殺害のナチスSA隊員5人に死刑判決が下った。

それに対してヒトラーは、判決を不服として政府に対して大々的な攻撃を行った。

恫喝に屈したのか、9月1日には彼らの刑は、終身刑に減刑された。

しかし、支持者は失望していた。

これほどの大勝利を得たにも拘らず、内閣に誰一人送り込むことが出来なかったことで、

ナチスは権力にこれ以上接近できないのではないかという懸念が広がったからである。

党員を辞める者や、党への資金供与の停止など、

その失望はダイレクトに党運営を苦しめた。

しかし、政府には敵が多かった。

ナチスはもちろんのこと、中央党もまたパーペンを敵視していた。

中央党は、パーペンによって政権中枢から排除されていたのである。

しかも、パーペンはヒトラー同様の独裁主義者であり全体主義者であった

(もっとも、当時ヒトラーは猫をかぶっていたわけだが)。

ナチスは、6月から中断していた中央党との連合交渉の再開に成功した。

そして、その連合交渉に成功し、2党はひとまず共同歩調をとることになる。

8月30日から、2党の共同歩調によって国会における主導権は握られた。

国民議会議長には、ナチスのゲーリング(後の国家元帥)が就任し、

第2党である社会民主党は、書記局にすら代表を送れなかったほどに

見事に排除されてしまった。

そして9月12日、なんとそれは共産党の方から起こされた。

共産党は、内閣不信任の動議を起こした。

これは、ナチスにとって回避すべき事態であった。

ナチスは、先に述べたとおり支持基盤が揺らいでいたこの時期に選挙するのは、

今ある議席を失いかねないという懸念を抱いていたからであった。

しかし、ヒトラーは既にゲッペルスに命じて選挙活動を開始しており、

非常に強気でこの動議に挑んだ。

ヒトラーは党議拘束をかけてこの不信任案に賛成する方へ動いた。

不信任案は可決され、再び国会は解散された。

これにより、この年2度目の総選挙は決定的となった。

「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-(26)

<25>ナチス、国民議会の第1党に

前回も書いたように、ナチスはもはや政府にとっての脅威であった。

突撃隊(SA)と親衛隊(SS)の禁止を解除されて、ナチスの武闘派である彼らは、

すっかりテロリストと化した。

国民議会議員選挙前、最後の10日間で彼らと警察ら自衛組織との衝突によって

プロイセン地方だけで死者24名、負傷者284名を出した。

特に彼らの矛先は共産党と社会民主党に向けられた。

理由は単純で、ナチスの支持層が資本家であったからである。

SAやSSは、とにかく彼らに繋がるあらゆるものを攻撃の対象とした。

新聞社、労組、集会所など彼らの集まるところを徹底的に攻撃した。

おかげで、彼らいわゆる左派の選挙活動は著しく制限されることとなる。

そんな中で、1932年7月31日に選挙は行われた。

以下はその結果であり、比較対象はナチスが第2党になった1930年9月のものである。

社会民主党    143→133

中央党        68→ 75

民主党        20→ 4

国家人民党     41→ 37

ドイツ人民党    30→ 7

共産党        77→ 89

バイエルン人民党 19→ 22

ナチス党      107→230

諸派             2

ナチスは、議席を倍増させる大勝利であった。

逆に議席を激減させた中道諸会派の凋落ぶりは悲惨そのものである。

中央党は踏みとどまったものの、

民主党やドイツ人民党は議席を1桁にまで打ち減らし、

かつて政権に参加していた政党とは思えない凋落振りである。

それでも、ナチスはこの結果に不満であった。

おそらくナチスは、過半数を取りに行ったのだろうと思う。

しかし、ここで彼らにとって選挙制度はマイナスに働いたのではなかろうか。

比例代表制は、小政党が生き残りやすいシステムであり、

逆に大政党が大きく議席を増やしずらいシステムである。

この結果は、ナチスにとっては不満であっただろうが、

それでも政府や他の政党にとっては大きな脅威であることに替わりは無かった。

思えば、先の総選挙がドイツ式に全議席比例代表制で行われていたならば、

その得票率から考えて自民党と民主党の議席数はもっと拮抗していたのかもしれない。

 自民党=3252万(小選挙区)+2589万(比例区)=5841万(票)

 民主党=2480万(小選挙区)+2104万(比例区)=4584万(票)

この計算式では、有権者の重複があるので単純に比較は出来ないが、

少なくとも、自民党:民主党=296:113という

圧倒的な差にならないことぐらいはわかっていただけるだろう。

とはいえ、そういった政治的背景を持つがゆえにヒトラーは、

過激な手段をとらざるを得なかったのではなかろうかと考えることが出来るわけである。

もし、現代日本にヒトラーは自民党総裁として顕われたならば、

ヒトラーはいかに動くことであろうか・・・。

「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-(25)

<24>ナチス、負けてなお強し

ヒトラーは、大統領選挙に敗北した。

しかし、議会における強勢が揺らぐことは無い。

よって、政府としてはその活動を牽制する必要がある。

選挙の結果が出て間もない1932年4月13日、政府から緊急令が発せられる。

その内容とは、「突撃隊(SA)及び親衛隊(SS)の即時禁止」であった。

彼らの跳梁は、他の政党にとって脅威以外の何者でもなかった。

彼らはナチスの私兵であり、他党の選挙活動の防止や、

果てはテロリストにさえなるからである。

ヒトラーもこれには従った。「ミュンヘン一揆」以来、

過激すぎる抵抗を避ける傾向にあったから当然のことといえる。

とはいえ、発令した時期が悪かった。

一部新聞では「これは社会民主党が大統領再選に協力してくれた見返りである」

と書きたてたし、ヒンデンブルク自身もそれに危機感を抱いていた。

さらに悪いことに、それ以降各州の選挙においてナチスが次々と勝利していくのである。

国民感情は、間違いなくナチスに傾いていた。

5月30日、大統領との決裂が決定的となり、そして民衆の心を得られないことを悟った

ブリューニング内閣は総辞職。

6月1日にはパーペン率いる新内閣が組閣された。

この内閣は全ての党派から白眼視されていた。

唯一ナチスだけが裏取引をしていたために攻撃を控えていた。

その裏取引とは、SA及びSSの禁止解除と国会解散の確約であった。

事実、組閣の翌日6月2日、国会は解散され、その約束は早々と達成されることとなる。

(SA及びSSの禁止解除も、6月14日に行われる)

国民議会議員選挙には、当然のことながらSA及びSSが再び跳梁することとなるのだが、

それらはまた次回に。いよいよ次回はナチスが議会第1党へと上り詰める話を。

P.S.

 前回までの資料は、以前も使いました「ワイマル共和国史」(ペリカン社)の

 第3巻、及び第4巻を使いました。

 今回からは、「ヴァイマール共和国史」(水声社)を用いております。

「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-(24)

<23>選挙戦

ヒトラーは、実際選挙戦に強かった。

ヒトラーの支持者は、主にドイツの重工業界、しかもその経営者側であった。

彼らにとって、社会主義を標榜する社会民主党や

それと馴れ合う現政府に対して強い嫌悪感があり、

ナチスがドイツにおけるマルクス主義の根絶を公約といていたため、

彼らはこぞってナチスを支持していた。

おかげでヒトラー陣営は彼らから潤沢な資金を得ることに成功し、

有利に選挙戦を進めていった。

一方のヒンデンブルク陣営は、資金集めに苦慮していた。

しかし、ブリューニング首相の献身的な活躍によって、

政治を知る者たちの間でヒンデンブルクの指示は徐々に広がっていった。

彼にとっては、自分の地位を守るための戦いであったのかもしれないが・・・。

それでも、選挙は1度で決まらなかった。

ほんの僅かではあるが得票数が足りず1度で決めることが出来なかったのだ。

 (大統領選挙投票1回目)

  ヒンデンブルク  1860万票(総得票数の50%に僅か0.4%分足りず)

  ヒトラー       1140万票

  テールマン     約500万票 (共産党擁立候補)

  デュスターベルク 約255万票(右派擁立候補)

そこで、2回目の投票が行われることとなったが、

そこには右派が推すデュスターベルクの名は無く、

右派もまたヒトラー当選阻止のためにヒンデンブルク支持に回った。

これによって大勢は決した。

 (大統領選挙投票2回目)

  ヒンデンブルク  1939万票

  ヒトラー       1341万票

  デュスターベルク 約400万票

しかし、ヒンデンブルク陣営は素直に喜ぶことは出来なかった。

今回の結果によって、現政権に対する不満分子の受け皿として、

ヒトラーが、ナチス党が着実に成長していることを示したからである。

それゆえにヒンデンブルクは、後日ヒトラーを首相にしようとするのである。

側近くに置いて、自分のコントロールできる状態にしようと考えたのであろう。

「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-(23)

<22>ヒトラー、大統領選に立候補す

ナチスが第2党になったことで、

内外ともこの勢力を無視できなくなったという話をこれまでしてきた。

ヒンデンブルク大統領は、1931年に初めてヒトラーと会見したし、

政府は国防相の口からナチス党員の国防軍入隊を認めた。

これには、軍部がもともと社会民主党を嫌っていたせいであり、

今までこういう動きが表に出なかったのはひとえに、

社会民主党に対抗しうる議会内勢力が現れなかったからである。

議会運営の上では、社会民主党の数の力を無視することはできず、

それゆえ仕方なく彼らと組んでいた面がある。

そこに、軍部にとって都合の良い思想を持った対抗馬が現れたわけである。

しかし、ヒトラーは人の風下に立つような男ではなかった。

1932年、ヒンデンブルク大統領の任期満了に伴う大統領選が行われる。

既に84歳になっていたヒンデンブルクは、本来なら引退するべきであったし、

実際彼も選挙にその身を任せようと考えていた。

しかし、ブリューニングら周辺の者の考えは違っていた。

ヒトラーが立候補すると想定して、彼に対抗しうる力を持つヒンデンブルクの後継者は、

少なくともヒンデンブルクの周辺には存在しなかった。

つまり、彼らとしては老齢のヒンデンブルクに全てを託すしかなかったのだ。

まずブリューニングは、憲法を改正して大統領の任期を延長しようとした。

しかし、そのためには国民議会において2/3以上の賛成を得ないといけない。

それには第2党のナチスと国家人民党の賛成を取り付けなければならなかった。

しかし、もちろんそれに失敗した。

ナチスにいたっては、この気に乗じて政府批判をさらに強めて

来るべき決戦に向けて着々と刃を研いでいるように思われた。

しかし、実際にはヒトラー自身今回立候補しても勝てないであろうと予想していた。

彼を協力に推したのはゲッペルスであった。

ゲッペルスは、支持者を大いに煽動してヒトラーを候補に祭り上げた。

そのことにヒトラーも悪い気はせず、彼もついに臍を固めた。

一方で、ヒトラー台頭に危機感を抱くベルリン市長の呼びかけによって、

超党派の委員会が結成され、委員会はヒンデンブルク擁立に動いた。

ヒンデンブルクもそれを受け入れざるを得なかった。

「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-(22)

<21>ナチスと、軍部が紡ぐ闇

1930年10月に召集された国民議会で、

ブリューニング首相率いる内閣は新しい財政計画を発表した。

その財政再建案は、前ミュラー内閣が倒れるきっかけとなったものよりも

さらに厳しいものだった。

ブリューニングは、国民議会で大演説をぶって議会に賛同を求めた。

議会の討論は白熱し、内閣は第一党の社会民主党を味方につけることに成功し、

この財政再建案は賛成多数を持って可決。

さらに12月には、この再建案を実行に移すため大統領の署名を得て緊急令を発布。

ブリューニングは、議会における主導権を握っていた。

対してナチスは、ブリューニング内閣を追い落とし自ら政権を握らんと欲して、

さまざまな策を弄したが少なくとも議会内においては不調であった。

しかしナチスは、ゲッペルスの天才的、あるいは悪魔的な宣伝力を発揮して

各地の集会において大成功を収めていた。

例えば、、ドイツ軍の1兵卒の視点から第1次大戦を描いたアメリカ映画

「西部戦線異状なし」がベルリンで上映されるときに、その辣腕はすさまじいものであった。

ナチスは、この原作が発表されたときから攻撃の対象としていたが、

その頃はその原作がベストセラーということもあって効果はなかった。

しかし、映画化されてベルリンで公開されるにあたってゲッペルスはこれを好機と見た。

彼はナチス党員を集めて観客に脅しをかけ、

悪臭ガスを映画館内にばら撒き、座席の下にネズミを放った。

観客は、ナチスの嫌がらせを恐れてこの映画を見ないようになり、

さらにはその描写が著しく不快であると判断されてしまったために、

ついには上映禁止処分をけることとなる。

世論は内閣がゲッペルスに敗北したと感じたし、

元軍人である現大統領ヒンデンブルクもこの結果に満足したという。

ナチスら右翼と、軍部は少しずつではあるがその身を寄せ合い始めていた。

彼らは、屈辱を忘れてはいなかった・・・。

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