「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-(31)

<30>まとめ

今朝、「スーパーモーニングスペシャル」(テレビ朝日系)で

小泉スペシャルをやっていた。

そこに世耕参議院議員が出ていて、ずいぶんいろいろとしゃべっていたのだが、

見ているうちにだんだん彼がゲッペルス宣伝相みたいに思えてきてしまった。

そして彼が番組中に盛んに言っていた

「小泉首相はもともと演説の名人」と言う言葉が気になった。

ヒトラーとコイズミ、その顕われ方こそ違えどもともに演説の名人であったのだ。

この二人には、時代の隔たりがあって演説の方法論に違いはある。

ヒトラーは、ずいぶん研究されたようにその声の周波数に

人を惹きつけるものがあったと言われている。

一方のコイズミも、テレビというメディアを意識した「サウンドバイト」という手法を

自然に用いてテレビ、新聞、雑誌と言ったメディアを

盛んに利用してその力を伸ばしていった。

ヒトラーという優秀な素材にゲッペルスが化合したことで第3帝国は顕われ、

コイズミにもまた世耕が化合することで総選挙大勝という結果を招来したわけである。

そう考えると「ヒトラー 最期の12日間」の主人公だったヒトラーの女性秘書なんて、

小泉チルドレンに被らないでもない。

戦争末期であるにもかかわらずヒトラーに妄信する彼女たちは、

まさにもうすぐ政治を投げ出して隠棲しようとする小泉に

盲従する小泉チルドレンそのものと言えなくもない。

そして、この二人を生み出したのが他ならぬ大衆であることを決して忘れてはならない。

この二人を選んだのが、ともに政治にもともと興味のない層であった事は興味深い。

そういった層を政治に振り向かせたことは、確かに彼らの功績であったかもしれない。

しかし、悲しいかな彼らには政治に対してバランスある視点を持ち得なかった。

ヒトラーの時代には不遇な対外環境がそうさせ、

現代においてはマスコミが扱いやすい情報を

結果的に偏向して流してしまったがゆえにコイズミに傾斜してしまった。

政治を良くするのは、結局民衆の務めである。

民主主義の爛熟した現代においては、

一個の巨大な個性をもってしても政治を浄化するのは生易しいことではない。

ましてやコイズミは、首相就任当時から「改革」「改革」と唱え続け、

いまだどう考えても道半ばであるのに、その座を投げ捨てようとしている。

小泉チルドレンの数の力を使って院政を張るのか、

それとも徳川慶喜のように政治から身を引いて趣味の世界に生きるのか。

いずれにしても、あまりにも無責任と言わざるを得ない。

そこまで「改革」「改革」と唱えるならば、

「改革」に殉ずる覚悟でその座に居座ればいいじゃないか。

マジ、やる気を見せろ、コイズミ!

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-(30)

<29>選挙と民衆

ヒトラー内閣成立~全権委任法の件については、

以前の内容と重複するのでここでは触れないこととする。

今回は、あれほど危険な思想を振りまき続けてきたヒトラーを、

なぜ民衆は支持してしまったのかについて。

まず、1933年当時の状況である。

議会では、長らく少数与党による混乱状況が続いていたため、

第1党たるナチスによる議会運営によって議会が安定化することに期待したのであろう。

裏を返せば、民衆は比例代表制選挙に対して否定的なのであろう。

いかに票の平等が確立されるとしても、

やはり民衆は顔の見えない候補に票を入れるのには抵抗があるのであろう。

これは、日本でも見られる傾向であろう。

特に、タイゾーの当選以来「比例代表で選ばれた議員は格下だ」

みたいな論調が選挙後に強まった。

日本の特殊な選挙制度では特に比例代表が敗者復活戦みたいな

制度になってしまっているので、この傾向は強いのであろう。

では、なぜワイマール共和国はかたくなに選挙制度を変えようとしなかったのか?

それは、まず革命を起こしたのが社会民主党ら社会主義者であったからであろう。

彼らは、本質としてはともかく民衆に対しては平等であることを訴え続けていた。

比例代表制はそれを具現する上で絶好だったのであろう。

また、社会主義者は新たなカリスマの出現を危惧していたのかもしれない。

例えば、「鉄血宰相」と呼ばれたビスマルクがこの時代に現れていたならば、

社会主義者には出る幕が無かったかもしれない。

しかし、社会主義者の掲げる民主主義は、

皮肉にも比例代表制のせいであまりにも迂遠な政治体系となってしまい、

それが民衆を失望させ、

残された可能性の中から最もアピールの強いナチスを

民衆に選ばせる結果になってしまったのではなかろうか。

これは、日本も同じことではなかろうか。

汚職にまみれた旧来の政治家に嫌気のさした国民が選んだのは、

何度も総裁選に挑戦し、効果的(と思われる)フレーズを連発する

汚職にまみれていない(単にばれていないだけなのかもしれないが)

小泉に期待をかけたのかもしれない。

彼によって、少なくとも旧来の政党政治(正確には政党内政党政治というべきか)は

ほぼ完全に崩壊した。

しかし、ヒトラーも小泉も声高に民族主義、国家主義を唱える。

その行き着く先は、いったい何処なのだろうか・・・。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-(29)

<28>国民国家を否定する国民と、それに乗るナチス

前回も書いたように、民衆は既に政党政治に対して失望していた。

彼らにとっては、ちっとも自分たちの生活が良くならないのに、

ただいたずらに選択を迫ってくる政府を無能と感じていたのかもしれない。

それに対してヒトラーは、後々まで主張し続ける「民族共同体」構想の中で、

ナチスが社会的、宗教的、地域的対立を国民の意思のもとに排除すると宣言していた。

また、ヒトラーは国家国民党や中央党の活動もまたナチスに協力いているのだと宣伝した。

しかし、ナチスの支持がそれによってそれほど伸びることは無かった。

ヒトラーの野心が見え透いていたからである。

彼は政党政治を否定しながら、ナチス内閣による全権掌握を志向していたからである。

一方でヒンデンブルクは、まだヒトラーを内閣に引き込もうと考えていた。

そうでなくては、国会運営に支障をきたすからである。

しかし、政府は共産党の攻撃を受けることになる。

共産党は、シュライヒャー内閣を「ファシスト内閣」であると非難し、

内閣不信任案上程にも賛成した。

しかし、彼らにはヴィジョンが欠けていた。

その面においてナチスよりも一歩劣っており、それゆえに後に敗北するのである。

政府は懸命に国民の支持を繋ぎとめようとし、労働者政策に注力した。

しかし、それは資本家階級の乖離を招いていた。

パーペン前首相は、1933年初頭にヒトラーと独断で極秘会見を持った。

そこでパーペンは、軽率にももはやシュライヒャー内閣は国民ばかりではなく、

大統領からの支持も受けていないと口を滑らせてヒトラーの入閣を促した。

もちろんシュライヒャーはパーペンを非難したが、

パーペンが言ったようにもはやシュライヒャーは孤立状態にあった。

パーペンは、ヒンデンブルクに対して独断で動いたことに関しては謝罪したろうが、

それでもヒトラーを首相に迎えることはヒンデンブルクの意向に合致すると考えて、

ヒンデンブルクにヒトラー内閣の達成を勧めた。

そして、シュライヒャーもついにこの苦境に耐えかねた。

彼もまた、以前はヒトラーを一時は支持していたわけであるし、

議会運営のためにはナチスの「数の力」は必要不可欠であることを

充分すぎるほど理解していた。

そしてヒンデンブルクもまた、そういった側近たちの進めについには屈服した。

1933年1月28日のシュライヒャー内閣総辞職を受けて大統領は、

ヒトラーに組閣と議会多数派工作を命じ、

1月30日には中央党との連立内閣を組閣、

ヒトラーはついにワイマール共和国のナンバー2にまで上り詰めた。

「全権委任法」成立まで、あと2ヶ月を切っていた。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-(28)

<27>国会中心主義の陥穽

まずは、1932年11月の国民議会議員選挙の結果から。

比較対象は、同年7月の結果です。

社会民主党     133→121

中央党         70→ 70

民主党         4→  2

国家人民党      37→ 52

ドイツ人民党      7→ 11

共産党        89→100

バイエルン人民党  22→ 20

ナチス        230→196

この選挙は、まず投票率が低かった。

年に2度の選挙ということもあり、もはや国民もうんざりしていた。

ナチスは、支持基盤が大きく揺らいだことなどもあって

第1党を維持したものの30議席以上も減らしてしまう。

また、穏健社会主義政党の社会民主党から、

急進社会主義の共産党へ票が移った。

現政権への失望は極に達していたといってもいい。

もはや、今まで通りの連立政権では多数派の確保は不可能であり、

議会運営の観点からナチス、中央党、共産党のいずれかを

政権に引き込まざるを得ない状況であった。

しかし、パーペン首相はそのいずれも拒否したため、

ヒンデンブルク大統領は側近のシュライヒャーを介してパーペンに因果を含めて

首相を変えようと考えた。

目標は、もちろん前選挙後にも候補に上がっていたヒトラーであった。

しかし、ヒトラーは条件をつけた。

以前もこの中で書いた「全権委任法」に大統領も同意するように通告したのだ。

ヒトラーは、政権の弱みに付け込んで全権の掌握を目指したのだ。

ヒンデンブルクも、さすがにそこまでの権限をヒトラーに与えるわけにはいなかった。

その後、中央党にも連立政権参加を呼びかけたがそれにも失敗し、

パーペンを再び首相の座に据えるわけにもいかず、八方塞がりになった。

やむなくヒンデンブルクは、側近よりシュライヒャーを首相に選んで

新内閣を組閣させざるをえなかった。

少数与党の議席がさらに先細るなか、

国民の失望は極右のナチスと極左の共産党、保守派の中央党という、

強力な野党3党に期待をかけていた。

この時点で、ワイマール共和国は有名無実となっていたのかもしれない。

おそらく、ナチスが止めを刺すまでも無く、

「ドイツ社会主義人民共和国」とか、中央党首班による新生「ドイツ共和国」が

ワイマール体勢の屍を越えて生まれていたのだろうから・・・。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-(27)

<26>権力とは争奪されるもの…

選挙の結果を受けて、ヒトラーらナチスの主要メンバーを入閣させるべきか否かについて、

大統領とその側近たちは協議を重ねた。

結果、ヒトラーを副首相とし、他の幹部も何人か入閣させようと考えた。

8月13日、ヒトラーらナチス首脳と、パーペン首相ら側近の会談が行われた。

しかし、ヒトラーが欲したのは首相の地位であって副首相ではなかった。

パーペンらが構想したナチスをコントロールしようとする意図は、見事に打ち砕かれた。

ヒトラーはこの会見のすぐ後に、ヒンデンブルク大統領とも会談を行ったが、

ヒンデンブルクからもパーペン以上の回答を得ることは出来なかった。

このとき、突撃隊(SA)も親衛隊(SS)も直接行動を起こそうとしていたが、

党首脳はひとまずそれを推しとどめた。

しかし、ヒトラーもこの仕打ちには怒りを覚えていた。

会談の9日後、共産党員殺害のナチスSA隊員5人に死刑判決が下った。

それに対してヒトラーは、判決を不服として政府に対して大々的な攻撃を行った。

恫喝に屈したのか、9月1日には彼らの刑は、終身刑に減刑された。

しかし、支持者は失望していた。

これほどの大勝利を得たにも拘らず、内閣に誰一人送り込むことが出来なかったことで、

ナチスは権力にこれ以上接近できないのではないかという懸念が広がったからである。

党員を辞める者や、党への資金供与の停止など、

その失望はダイレクトに党運営を苦しめた。

しかし、政府には敵が多かった。

ナチスはもちろんのこと、中央党もまたパーペンを敵視していた。

中央党は、パーペンによって政権中枢から排除されていたのである。

しかも、パーペンはヒトラー同様の独裁主義者であり全体主義者であった

(もっとも、当時ヒトラーは猫をかぶっていたわけだが)。

ナチスは、6月から中断していた中央党との連合交渉の再開に成功した。

そして、その連合交渉に成功し、2党はひとまず共同歩調をとることになる。

8月30日から、2党の共同歩調によって国会における主導権は握られた。

国民議会議長には、ナチスのゲーリング(後の国家元帥)が就任し、

第2党である社会民主党は、書記局にすら代表を送れなかったほどに

見事に排除されてしまった。

そして9月12日、なんとそれは共産党の方から起こされた。

共産党は、内閣不信任の動議を起こした。

これは、ナチスにとって回避すべき事態であった。

ナチスは、先に述べたとおり支持基盤が揺らいでいたこの時期に選挙するのは、

今ある議席を失いかねないという懸念を抱いていたからであった。

しかし、ヒトラーは既にゲッペルスに命じて選挙活動を開始しており、

非常に強気でこの動議に挑んだ。

ヒトラーは党議拘束をかけてこの不信任案に賛成する方へ動いた。

不信任案は可決され、再び国会は解散された。

これにより、この年2度目の総選挙は決定的となった。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-(26)

<25>ナチス、国民議会の第1党に

前回も書いたように、ナチスはもはや政府にとっての脅威であった。

突撃隊(SA)と親衛隊(SS)の禁止を解除されて、ナチスの武闘派である彼らは、

すっかりテロリストと化した。

国民議会議員選挙前、最後の10日間で彼らと警察ら自衛組織との衝突によって

プロイセン地方だけで死者24名、負傷者284名を出した。

特に彼らの矛先は共産党と社会民主党に向けられた。

理由は単純で、ナチスの支持層が資本家であったからである。

SAやSSは、とにかく彼らに繋がるあらゆるものを攻撃の対象とした。

新聞社、労組、集会所など彼らの集まるところを徹底的に攻撃した。

おかげで、彼らいわゆる左派の選挙活動は著しく制限されることとなる。

そんな中で、1932年7月31日に選挙は行われた。

以下はその結果であり、比較対象はナチスが第2党になった1930年9月のものである。

社会民主党    143→133

中央党        68→ 75

民主党        20→ 4

国家人民党     41→ 37

ドイツ人民党    30→ 7

共産党        77→ 89

バイエルン人民党 19→ 22

ナチス党      107→230

諸派             2

ナチスは、議席を倍増させる大勝利であった。

逆に議席を激減させた中道諸会派の凋落ぶりは悲惨そのものである。

中央党は踏みとどまったものの、

民主党やドイツ人民党は議席を1桁にまで打ち減らし、

かつて政権に参加していた政党とは思えない凋落振りである。

それでも、ナチスはこの結果に不満であった。

おそらくナチスは、過半数を取りに行ったのだろうと思う。

しかし、ここで彼らにとって選挙制度はマイナスに働いたのではなかろうか。

比例代表制は、小政党が生き残りやすいシステムであり、

逆に大政党が大きく議席を増やしずらいシステムである。

この結果は、ナチスにとっては不満であっただろうが、

それでも政府や他の政党にとっては大きな脅威であることに替わりは無かった。

思えば、先の総選挙がドイツ式に全議席比例代表制で行われていたならば、

その得票率から考えて自民党と民主党の議席数はもっと拮抗していたのかもしれない。

 自民党=3252万(小選挙区)+2589万(比例区)=5841万(票)

 民主党=2480万(小選挙区)+2104万(比例区)=4584万(票)

この計算式では、有権者の重複があるので単純に比較は出来ないが、

少なくとも、自民党:民主党=296:113という

圧倒的な差にならないことぐらいはわかっていただけるだろう。

とはいえ、そういった政治的背景を持つがゆえにヒトラーは、

過激な手段をとらざるを得なかったのではなかろうかと考えることが出来るわけである。

もし、現代日本にヒトラーは自民党総裁として顕われたならば、

ヒトラーはいかに動くことであろうか・・・。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-(25)

<24>ナチス、負けてなお強し

ヒトラーは、大統領選挙に敗北した。

しかし、議会における強勢が揺らぐことは無い。

よって、政府としてはその活動を牽制する必要がある。

選挙の結果が出て間もない1932年4月13日、政府から緊急令が発せられる。

その内容とは、「突撃隊(SA)及び親衛隊(SS)の即時禁止」であった。

彼らの跳梁は、他の政党にとって脅威以外の何者でもなかった。

彼らはナチスの私兵であり、他党の選挙活動の防止や、

果てはテロリストにさえなるからである。

ヒトラーもこれには従った。「ミュンヘン一揆」以来、

過激すぎる抵抗を避ける傾向にあったから当然のことといえる。

とはいえ、発令した時期が悪かった。

一部新聞では「これは社会民主党が大統領再選に協力してくれた見返りである」

と書きたてたし、ヒンデンブルク自身もそれに危機感を抱いていた。

さらに悪いことに、それ以降各州の選挙においてナチスが次々と勝利していくのである。

国民感情は、間違いなくナチスに傾いていた。

5月30日、大統領との決裂が決定的となり、そして民衆の心を得られないことを悟った

ブリューニング内閣は総辞職。

6月1日にはパーペン率いる新内閣が組閣された。

この内閣は全ての党派から白眼視されていた。

唯一ナチスだけが裏取引をしていたために攻撃を控えていた。

その裏取引とは、SA及びSSの禁止解除と国会解散の確約であった。

事実、組閣の翌日6月2日、国会は解散され、その約束は早々と達成されることとなる。

(SA及びSSの禁止解除も、6月14日に行われる)

国民議会議員選挙には、当然のことながらSA及びSSが再び跳梁することとなるのだが、

それらはまた次回に。いよいよ次回はナチスが議会第1党へと上り詰める話を。

P.S.

 前回までの資料は、以前も使いました「ワイマル共和国史」(ペリカン社)の

 第3巻、及び第4巻を使いました。

 今回からは、「ヴァイマール共和国史」(水声社)を用いております。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-(24)

<23>選挙戦

ヒトラーは、実際選挙戦に強かった。

ヒトラーの支持者は、主にドイツの重工業界、しかもその経営者側であった。

彼らにとって、社会主義を標榜する社会民主党や

それと馴れ合う現政府に対して強い嫌悪感があり、

ナチスがドイツにおけるマルクス主義の根絶を公約といていたため、

彼らはこぞってナチスを支持していた。

おかげでヒトラー陣営は彼らから潤沢な資金を得ることに成功し、

有利に選挙戦を進めていった。

一方のヒンデンブルク陣営は、資金集めに苦慮していた。

しかし、ブリューニング首相の献身的な活躍によって、

政治を知る者たちの間でヒンデンブルクの指示は徐々に広がっていった。

彼にとっては、自分の地位を守るための戦いであったのかもしれないが・・・。

それでも、選挙は1度で決まらなかった。

ほんの僅かではあるが得票数が足りず1度で決めることが出来なかったのだ。

 (大統領選挙投票1回目)

  ヒンデンブルク  1860万票(総得票数の50%に僅か0.4%分足りず)

  ヒトラー       1140万票

  テールマン     約500万票 (共産党擁立候補)

  デュスターベルク 約255万票(右派擁立候補)

そこで、2回目の投票が行われることとなったが、

そこには右派が推すデュスターベルクの名は無く、

右派もまたヒトラー当選阻止のためにヒンデンブルク支持に回った。

これによって大勢は決した。

 (大統領選挙投票2回目)

  ヒンデンブルク  1939万票

  ヒトラー       1341万票

  デュスターベルク 約400万票

しかし、ヒンデンブルク陣営は素直に喜ぶことは出来なかった。

今回の結果によって、現政権に対する不満分子の受け皿として、

ヒトラーが、ナチス党が着実に成長していることを示したからである。

それゆえにヒンデンブルクは、後日ヒトラーを首相にしようとするのである。

側近くに置いて、自分のコントロールできる状態にしようと考えたのであろう。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-(23)

<22>ヒトラー、大統領選に立候補す

ナチスが第2党になったことで、

内外ともこの勢力を無視できなくなったという話をこれまでしてきた。

ヒンデンブルク大統領は、1931年に初めてヒトラーと会見したし、

政府は国防相の口からナチス党員の国防軍入隊を認めた。

これには、軍部がもともと社会民主党を嫌っていたせいであり、

今までこういう動きが表に出なかったのはひとえに、

社会民主党に対抗しうる議会内勢力が現れなかったからである。

議会運営の上では、社会民主党の数の力を無視することはできず、

それゆえ仕方なく彼らと組んでいた面がある。

そこに、軍部にとって都合の良い思想を持った対抗馬が現れたわけである。

しかし、ヒトラーは人の風下に立つような男ではなかった。

1932年、ヒンデンブルク大統領の任期満了に伴う大統領選が行われる。

既に84歳になっていたヒンデンブルクは、本来なら引退するべきであったし、

実際彼も選挙にその身を任せようと考えていた。

しかし、ブリューニングら周辺の者の考えは違っていた。

ヒトラーが立候補すると想定して、彼に対抗しうる力を持つヒンデンブルクの後継者は、

少なくともヒンデンブルクの周辺には存在しなかった。

つまり、彼らとしては老齢のヒンデンブルクに全てを託すしかなかったのだ。

まずブリューニングは、憲法を改正して大統領の任期を延長しようとした。

しかし、そのためには国民議会において2/3以上の賛成を得ないといけない。

それには第2党のナチスと国家人民党の賛成を取り付けなければならなかった。

しかし、もちろんそれに失敗した。

ナチスにいたっては、この気に乗じて政府批判をさらに強めて

来るべき決戦に向けて着々と刃を研いでいるように思われた。

しかし、実際にはヒトラー自身今回立候補しても勝てないであろうと予想していた。

彼を協力に推したのはゲッペルスであった。

ゲッペルスは、支持者を大いに煽動してヒトラーを候補に祭り上げた。

そのことにヒトラーも悪い気はせず、彼もついに臍を固めた。

一方で、ヒトラー台頭に危機感を抱くベルリン市長の呼びかけによって、

超党派の委員会が結成され、委員会はヒンデンブルク擁立に動いた。

ヒンデンブルクもそれを受け入れざるを得なかった。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-(22)

<21>ナチスと、軍部が紡ぐ闇

1930年10月に召集された国民議会で、

ブリューニング首相率いる内閣は新しい財政計画を発表した。

その財政再建案は、前ミュラー内閣が倒れるきっかけとなったものよりも

さらに厳しいものだった。

ブリューニングは、国民議会で大演説をぶって議会に賛同を求めた。

議会の討論は白熱し、内閣は第一党の社会民主党を味方につけることに成功し、

この財政再建案は賛成多数を持って可決。

さらに12月には、この再建案を実行に移すため大統領の署名を得て緊急令を発布。

ブリューニングは、議会における主導権を握っていた。

対してナチスは、ブリューニング内閣を追い落とし自ら政権を握らんと欲して、

さまざまな策を弄したが少なくとも議会内においては不調であった。

しかしナチスは、ゲッペルスの天才的、あるいは悪魔的な宣伝力を発揮して

各地の集会において大成功を収めていた。

例えば、、ドイツ軍の1兵卒の視点から第1次大戦を描いたアメリカ映画

「西部戦線異状なし」がベルリンで上映されるときに、その辣腕はすさまじいものであった。

ナチスは、この原作が発表されたときから攻撃の対象としていたが、

その頃はその原作がベストセラーということもあって効果はなかった。

しかし、映画化されてベルリンで公開されるにあたってゲッペルスはこれを好機と見た。

彼はナチス党員を集めて観客に脅しをかけ、

悪臭ガスを映画館内にばら撒き、座席の下にネズミを放った。

観客は、ナチスの嫌がらせを恐れてこの映画を見ないようになり、

さらにはその描写が著しく不快であると判断されてしまったために、

ついには上映禁止処分をけることとなる。

世論は内閣がゲッペルスに敗北したと感じたし、

元軍人である現大統領ヒンデンブルクもこの結果に満足したという。

ナチスら右翼と、軍部は少しずつではあるがその身を寄せ合い始めていた。

彼らは、屈辱を忘れてはいなかった・・・。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-(21)

<20>ナチスと軍事力の結びつき

ナチスといえば、SS(親衛隊)であろう。

ナチスには、もともとSA(突撃隊)という私兵集団を持っていたが、

SSはヒトラーがSAの中から自分のまさに「親衛隊」とするために

さらに選抜された組織である。

1925年に結成された当初は200人そこそこのであったものが、

1929年にヒムラーがその指導者となると突如拡大路線をとり、

1932年末には52000人まで膨れ上がる。

当時、ドイツはヴェルサイユ条約によって

その陸軍兵力を10万人以下に制限されていたことを考えると、

この数はまさに驚異的であった。

しかも、ヒトラーは得意の演説で国防軍に向けて公然と国防軍将校への批判を行い、

一方で青年将校に対しては右派すなわちナチスこそが正義であることを主張した。

また、こういった軍事力以外でもナチスは数による暴力を用いていた。

例えば、1930年10月のナチスが第2党に躍進した直後に召集された

国民議会において、議場外ではナチス党員が公然と集会を行い、

議場内には禁止されていた統一の制服姿(このときはSAのもの)で議員が入場してきた。

ナチスは、共産党を敵視しており、このときの国民議会では

恫喝的に「マルクス主義者」であるレーベ議長を追い落とそうとしたが、

結果としては失敗した。

とはいえ、こういった動きの一つ一つが他の党や諸外国を

恐怖によって次第に蝕んでいくこととなる。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-⑳

<19>極右ナチス党の衝撃

1930年の選挙結果は、瞬く間にヨーロッパ諸国に報道され、

衝撃とある種の落胆をもって迎えられる。

フランスの言論人はこの時点で、

「もしナチスが政権を握るようなことがあれば、間もなく戦争が始まるに決まっている」

「ドイツの選挙結果を知って国際連盟全体が愕然として色を失った」

といった発言を行っている。知っての通り前者の発言は早晩実現することとなる。

一方でイギリスの「タイムス」紙は、ナチスの危険は小さいという論調を張った。

しかしロンドン市場ではドイツ売りが始まり、その動きは世界に広がっていった。

このことがドイツ経済に与える影響は小さくなかった。

ドイツ政府は、国庫証券の新規発行が不可能になった。

引き受け手がないのだから当然である。

ドイツ国立銀行は、金や外国為替が激減し、

その流出額はあわせて10億ライヒスマルクにも上った。

これは、ヤング案によって軽減されたとはいってもその年に払わなければならなかった

賠償金の額17億ライヒスマルクの過半に上る莫大な金額である。

これらの原因は、なんと言ってもナチスが反ユダヤ政策を採っており、

当時経済を支配していたユダヤ系金融機関やユダヤ系企業が

ドイツ国内から財産や資金を避難させたことによるところが大きい。

しかし、これらの経済的危機もナチスを中心とする国粋主義者によって

ヤング案の責任とするデマを流されるなど格好の好餌にされてしまっていた。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-⑲

<18>比例代表制の罠と、独裁者待望論

杉村太蔵という男がいる。

彼こそ、今回の選挙に咲いた徒花の一つであろう。

同郷の人間をあまり悪く言いたくはないが、武部勤が

「彼(タイゾー)は、今参議院の全国区に出れば間違いなく最多得票で当選するだろう」

とまで言った。

彼が選挙活動でもしようものなら、必ずやボロが出るであろうことは、

他ならぬ自民党が彼に緘口令を敷いていることからも明らかである。

とまぁ、しょう~もない話から始めてしまったわけでありますが、

彼のようなどうしようもない人間でも当選する可能性を持つ選挙制度こそ、

これから問題にする「比例代表制」なのである。

ワイマール憲法においては、国民議会議員を選出するためには

必ず全数を比例代表制で選挙するように明記されている(ワイマール憲法第22条)。

メリットは、全有権者の票が平等に扱われる点である。

また、死票が無いため全有権者の意見が素直に議席に反映される。

しかし、この制度では政治家ではなく政党を選ぶ方式になってしまうために、

民意が非常にアバウトな形でしか政治に届かなくなってしまう。

また、それこそタイゾーのような怪しげな人間でも当選できる可能性を残してしまう。

1930年のナチス党も、これと同様にずいぶんと怪しげな人間を

比例名簿に書き込んでいた。

当のヒトラーはもちろんのこと(ミュンヘン一揆の首謀者として実刑を受けている)、

政治的暗殺犯の前科を持つハイネスという男が名簿に書き込まれていたのである。

そして、ドイツがほんの10数年前まで君主制を採っていたことも少なからず影響した。

君主制とは、言うなれば君主が何でも決めてくれる制度である。

考えようによっては、これほど気楽な制度はない。

善政を敷く者なら、その人に全て委ねていればいいわけだし、

悪政を敷く者ならば、その人の責任できる。

しかし民主主義というのは、その迂遠さ以上に責任の一端を負う

(実際にそんな人はいないだろうが)面倒な制度なのである。

そこに、ヒトラーという指導者の役を買ってでるような男が現れたのである。

彼は、さほど広くないドイツという国土を飛行機を使って精力的に遊説し、

その得意の弁舌を振るった。彼の感情的な言葉が人々の心情に直接的に訴え、

人々はそれに魅了され感銘を受けた。

それが、投票活動に結びつきナチス党の大躍進に貢献したのである。

翻って日本である。日本には、実は独裁の時代というものが存在しない。

武家政権が独裁だと思っているものもいるかもしれないが、

かれらでさえも、民衆を直接支配していたわけではない。

形式的には明治天皇が独裁に近かったのだが

(ドイツ帝国を手本に国家作りを始めたのだから当たり前なのだが)、

それが徹底されなかったのは、憲法を作ったのが実際には天皇ではなく

臣たる伊藤博文たちだったからである。

そのツケが出るのが第2次世界大戦である。

昭和天皇にはあの戦争を抑える術を実は持たされていなかった。

いや、正確にはあったのかも知れないが、

天皇にはそれができなかったのではなかろうか。

御前会議というものが、実は厄介な制度である。

あれは、天皇の前で文官のトップと武官のトップが話し合うというものだが、

天皇はそこでの決定に実際には異議を唱えることができないとされている。

つまり、国家の最重要決定機関に天皇は見ているだけの役なのである。

よって、戦前の日本もまた独裁ではないといえるのである。

現在、小泉を「現代の信長」ともてはやすものがいる。

日本史上において、恐らく信長こそもっとも独裁に近い存在であっただろう。

ということは、現代の日本国民は心の底では独裁を望んでいるのではないだろうか。

兆しは無いわけではない。例えばオウム真理教(現アーレフ)である。

麻原彰晃に惹かれたのはその断定的な口調であったからだともいわれている。

彼、もしくは彼の周辺はヒトラーとナチス党のことを研究したのではないだろうか。

そして、その理論を応用してオウムを拡大していったのではなかろうか。

そして小泉である。

今日決められた造反議員への向かい方をみても、

彼の行く先には「ヒトラー」か「裸の王様」が見え隠れするのだが・・・。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-⑱

<17>ナチス躍進と自民党躍進

1930年の国民議会選挙において、ヒトラー率いるナチス党は復活を果たした。

1928年の選挙ではわずか12人の党がこのとき一気に107人を送り出したのである。

躍進の理由は、まずナチスが布教によって煽りを食らった

大量の失業者の受け皿たりえたことである。

ヒトラーは得意の弁舌によって、この不況を世界恐慌に求めるのではなく

あくまでも政府の失策に求め、具体的には政府が取り結んだ

ヤング案によるものであるとした。

民衆にとってこのことはわかりやすく受け入れやすかったのである。

この点こそ、まさに小泉がこのたびとった戦術と全く同じであり、

このときに採った民衆の態度もさほど変わるものではなかった。

彼ら、すなわち当時のドイツ国民も現在の日本国民も、

ヒトラーの、そして小泉の言を信じた、いや信じたかったのだ。

つまり、彼らの甘言を妄信したのだ。

また、ヒトラーは農民層に強い地盤を持っていた。

農村に対しては現政府も大規模な救済政策を採っていたが、

それがまだ効果を現す前であったために政府側に利さなかったのである。

さらに、インフレがもたらした中産階級の分解がナチスに利した。

彼らは、戦前の明るい生活と戦後の暗い生活を比較して、

今の政府に頼っていたのでは到底過去の安楽な生活は得られることは無く、

それならばと急進的に自分たちを導いてくれるであろうナチスに賭けたのだ。

これもまた、現在日本が置かれている日本の状況に近いものがある。

過去、日本にはバブルと呼ばれる時代があった。

その甘い蜜を吸うほどではないにしろ、

あの明るい時代を忘れられない人々は少なくなかろう。

それに比べて、今は国がいくら「景気は回復局面にある」とは言っても、

その実感に乏しいのが現実であるという決して明るい時代とは言えない状況である。

しかし当時のドイツとの違いは、ナチスのような受け皿を

日本の政党政治が持ち得なかった点である。

よって、票は改革を唱える小泉に流れた。

しかし、この票はあくまでも小泉に流れたものであって、

自民党に流れたものではないと言うことを

自民党は、いやポスト小泉と呼ばれる人々は肝に銘じておかなくてはならないだろう。

この話は、もう少し続く。

次回は、ワイマール憲法が持つ致命的な問題の一つ、選挙制度について考察する。

                                          (続く)

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-⑰

<15>~閑話休題~ 増税と減税 その2

1930年1月のハーグ会議で、ドイツ使節団は交渉に勝って

ヤング案という賠償金の軽減案の締結に成功した。

しかし、いまやドイツ経済の実権を握る男、国立銀行総裁のシャハトが、

この会議に一石を投じた。

彼は、この会議上ドイツ国立銀行が国際決済銀行への参加条件に

ヴェルサイユ条約のドイツに対する制裁条項の全面無効化などを要求したのである。

しかし、それは他の各国の中央銀行代表者に冷たくあしらわれる。

しかし、そのことを彼は政府代表団に隠していたために状況はさらに悪化し、

シャハトは結局その地位を追われることとなる。

その後、ドイツ国民議会の承認を経てこの案は正式に発行することにあるのだが、

これによって浮いた国家予算の使われ方が今度は問題になった。

と言うのも、世界恐慌による大不況で著しい税収減と

大量の失業者の発生に伴う多額の失業保険支払いによって

国家財政は逼迫していたからである。

政府は、ドイツ農業救済計画の一環として農産物の輸入関税引き上げを敢行した。

しかし失業者の増加は止まらず、

政府は失業保険庁に対して国庫借入金を投入して当座をしのいだ。

しかし、その後の処理に失敗したりしたことについては先に書いたとおりである。

日本の税収不足、保険料収入の不足は深刻である。

日本もまた、これに対して負担増を国民に迫ろうとしている。

しかも、ドイツよりもたちが悪いことに国会が1つの党によって

ほぼ支配されてしまっている点である。

次回からは再びヒトラーが登場する。

ここから先は、国民の暴走がいかにして国家を危地に追い込むか

という過程を見ていくことになる。

しかし、その手の研究はある程度なされてしまっているわけだから、

わたしとしては今まであまり注目されていなかった当時の経済状況などについても

掘り下げていきたいと思う。

なぜなら、当時のドイツも今の日本も財政面はまっかっかと言う点では

同じことなのだから…。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-⑯

<15>~閑話休題~ 増税と減税

前回、ミュラー内閣やブリューニング内閣が財政再建に失敗して倒閣した話をしたが、

時あたかも日本でも同様の論議がなされている。

まぁ、こういう背景があって、今回こういうものを書いていこうと考えたわけであるが…。

では、この当時出された財政再建案などについて、

現在の日本の状況を踏まえつつ考察を加えていきたいと思う。

世界経済全体を比較すると、まず、1929年に世界恐慌が始まっている。

現在は少なくともそうではなかろうが、

石油の状況などを考えるとあまり安穏としていられる状況でもない。

比較対象としては当たらずとも遠からずといったところだろうか。

両国の経済状況を考えると、いずれも「失われた」時代を経過しており、

やはり似たような道を歩んでいると言えなくはない。

現代日本の失業率は、世界経済全体の水準から言えば決して高い水準とは言えないが、

日本史上で言えば高水準といえるだろう。

その上、税収入や国家財政を脅かす要素が少なくない。

例えば国民年金の未払い問題や、厚生年金からの離脱などが例として挙げられるだろう。

一方、当時のドイツにとっての大問題は失業保険であった。

ドイツの失業保険は、日本の厚生年金と同様雇用主と労働者の双方負担であった。

しかし、失業者の急増でその収入では失業給付が不可能となっていた。

政府は、担当省庁である失業保険庁に対して公金を貸し付けるという形で、

当座をしのいでいたが、当然失業保険庁に返す当てなどあるはずもなく、

公金(要するに税金)の持ち出しだけが膨らむことになるだけであった。

1929年6月末の時点で、貸付金は3億ライヒマルクを超えており、

政府はその対策を迫られていた。

方法など、古今変わる所がない。支払い金額を減らすか、負担を増やすかだけである。

日本では常に後者の策を採るばかりであるが、ドイツでは国家を2分した。

すなわち、労使が全面対決の姿勢をとったのである。

この差に関しては、時代的な背景も関係するので一概に比較することはできないが、

学生運動の終焉以来日本人はすっかり牙が抜かれてしまっているので、

まぁ、こうなることは考えられないでしょう。

しかし、これによって連立政権が分裂してしまったことはドイツにとって不幸であった。

さらに悪いことに、この時期関係閣僚である大蔵大臣と経済大臣が揃って

賠償金についての会議でドイツ国内を留守にしていた。

その間に参議院によって妥協案が可決され、それが保険料の引き上げだったために

雇用主団体からの猛抗議にさらされる結果になってしまった。

そののち、曲折を経てこの妥協案は大幅な修正をもって世に出たわけだが、

その曲折は政府に大きな亀裂を生むことになってしまった。

しかも、先の持ち出しのために政府は公債を発行していたために、

財政の危機は去ったどころかますます危うくなっていたわけである。

この状況を利用して国立銀行総裁が国家財政を壟断しようとしたが、

それは大蔵次官ポピッツによって阻止された。

その一方で彼は、アメリカの銀行に借り入れを打診したが、

今度はそれを国立銀行総裁によって阻まれてしまう。まさに足の引っ張り合いである。

結局首相は、大蔵大臣を更迭し、国立銀行総裁に屈するしかなくなってしまう。

それほどまでにドイツ財政は逼迫していたのである。

財政建て直しのために、関税の引き上げ、タバコ税の新設、

そして一度は修正されて棚上げになった失業保険負担率の引き上げ決めてしまった。

このことが当然ながら更なる分裂の火種を生むことになるが、

この話はまだまだ続くので今日のところはココまでに。     (続く)

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-⑮

<14>世界恐慌

1929年6月、賠償問題専門委員会は5年前に出されたドーズ案をもってしても

進捗しない賠償金の支払いに対してヤング案という新案を発表した。

これは、賠償金金額を減額し、さらに年あたりの支払い金額に関しても

将来的には減額することなどを盛り込んだものであった。

理由はおそらく、懲罰的もともとの賠償案がこれ以上ドイツ経済を締めつければ、

ブルジョワ政党が敗退し社会主義やナチズムの台頭を

呼び込むことになるのではないかという危惧があったからからではなかろうか。

しかもそのころは世界的に軍縮の機運が高まっており、

いかにヴェルサイユ条約によって軍備を大幅に制限しているからといっても、

暴発した場合にそれを抑えきれるかどうかに疑念があったからではなかろうか。

とはいえ、この案だけ見ればドイツにとって悪い提案ではなく、

事実いくつかの曲折はあったもののこの案は翌1930年3月にこの案は締結された。

しかし、この案がドイツを更なる危機に追い込むのであった。

知ってのとおり、締結の前年1929年の10月に世界を大恐慌が襲う。

ここではドイツに与えた影響についてのみ詳述することにする。

このころ、ドイツは経済の停滞によって失業者が増加していた。

そのことは政府財政を大きく苦しめていた。

一つは税収減であり、今ひとつは失業者に支払われる失業保険の増加であった。

そこに『ヤング案』は舞い込んで来たわけである。

政府内では失業保険の節約と減税を次年度予算に盛り込もうとしていた。

これは明らかに『ヤング案』をあてにしており、

ブルジョワ政党側から見れば完全な人気取りであった。

しかし、労働者の意見を代弁する社会主義政党は当然これに抵抗した。

ヒンデンブルク大統領は、このまま政党間の論議によって政治が停滞することを危惧して、

ミュラー首相に後事を自分に任せるように言って、

ミュラーに内閣総辞職するように言った。

3月27日、ミュラーは内閣を総辞職し、

ヒンデンブルクは2日後に前蔵相ブリューニングを首相とする内閣を立てさせた。

これは実質的な傀儡政権であり、

内閣から社会民主党を追い出すためだけのものであった。

ヒンデンブルクは、7月に財政再建のために増税案と財政支出の引き締めの両案を

大統領緊急命令によって議会に提出したが、

下野した社会民主党などに当然のように反対され、内閣は議会を解散させた。

以下は、それを受けて9月に行われた国民議会選挙の結果である。

(比較対照は1928年5月におこなわれた国民議会選挙の結果)

社会民主党     153→143

中央党         62→ 68

民主党         25→ 20

国家人民党      73→ 41

ドイツ人民党      24→ 30

共産党         54→ 77

バイエルン国民党   16→ 19

農業者同盟        3→  3

農村住民運動     10→ 19

農民党           8→   6

ナチス党         12→107

なんと言っても注目すべきはナチスの大躍進である。

この選挙で一気に第2党に躍進している。 

また、共産党も確実に票を伸ばして第3党に食い込んだ。

解散の原因を作ったヒンデンブルクは、選挙後組閣したが、

それは旧貴族階級を中心に作られたもので、

到底議会の信任を得られるものではなかった。

この選挙の結果により、中央政府はよりナチスを危険視するようになった。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-⑭

<13>つかの間の平和

ヒトラー率いるナチ党意外にも、中央政府は多くの悩みを抱えていた。

そのうちの一つは、インフレは収まることを知らなかった。

そこで政府は新通貨「レンテンマルク」を発行する(1923年11月)。

これはいわゆるデノミネーションで、旧マルクとの交換レートは

1:1,000,000,000,000で通貨発行額なども制限されていた。

これによってインフレはついに沈静化し、

翌年発行されるライヒスマルクへさらにその任は引き継がれた。

また、インフレの直接原因であった賠償金問題にもメスが入れられた。

賠償専門委員会のドーズは、ドイツの国情を考慮して

年間支払額の減額やアメリカからの資金供与を盛り込んだ「ドーズ案」を提示。

議会の賛成を通じて1924年8月16日発効された。

その年の12月に国民議会選挙が行われた。

結果は以下の通り。(比較は1924年5月の議席とのもの)

社会民主党    100→131

中央党        65→ 69

民主党        28→ 32

国家人民党     95→103

ドイツ人民党     45→ 51

共産党        62→ 45

バイエルン人民党  16→ 19

農業者同盟      10→  8

経済党         10→ 17

民族主義者          14

ナチス党        32→ 14

ナチスは、ヒトラーのという強い求心力を失って議席を少なくしている。

一方で、インフレ問題が片付いたせいか共産党が大きく議席を減らしている。

大きく動いたのは社会民主党で、やや議会内での立場が良くなった。

しかし、経済の安定化を受けてブルジョワ政党による内閣

(具体的には中央、ドイツ人民、民主、国家人民の4党連立)

が組閣された(計255議席、占有率50.7%)。

また、この内閣でナチスはついに閣僚を一人送り出した。

さらに、1926年には国際連盟への加盟も果たし国際社会の一員として復帰を遂げた。

世界は、初めて体験した国民戦争「第1次世界大戦」の傷から癒えようとしていた・・・。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-⑬

<12>ミュンヘン一揆

前回に続いてヒトラーの話を。

以前の選挙結果を見てもわかるように、ヒトラー率いるナチ党は、

国民議会にタダの1議席も持ってはいない。

その活動もバイエルン地方に限定されたものであった。

しかし、中央政府はそんなナチを恐れていた。

理由は、まず急速な党員の増加であった。

ヒトラーが党首になった1921年からわずか2年で党員は、

15000人ほどから50000人まで膨れ上がっていた。

そして、ナチは党の私兵集団である突撃隊(SA)もまた恐怖の対象であった。

たとえば、1921年11月のミュンヘンにおける共産党との衝突がある。

極右勢力のナチが左翼の共産党を目の敵にするのは当然のことだが、

こういった過激な手段をその後もとっていくことになる。

そして、それをバイエルン州も容認していた。

もともと、共和国政府に対して反抗的な地方で、バイエルン人民党のような

地方政党を作って国民議会に独自の地歩を築くほどであった。

それに対し中央政府は、ナチの機関紙発行を停止させるなどの手段をとって

牽制してきた。

押さえつけられたナチは、ついにその初期において最大規模のクーデターといえる

いわゆる「ミュンヘン一揆」を起こす。

これは、その前年にイタリアのムッソリーニ(ファシスト党)の起こした

「ローマ進軍」に倣って行われたものである。

1923年11月8日、ミュンヘンのビアホールに集まった右翼政治家を、

ヒトラー率いるSAが包囲。ヒトラーの計画する「国民革命」案に強引に同意させた。

「国民革命」とは、軍に顔が利くルーテンドルフを担ぎ出して、

軍とともに共和国政府を打倒しようとする軍事クーデターの計画である。

しかし、その夜のうちに包囲網を抜け出した右翼政治家は国防軍に駆け込み、

国防軍は一揆鎮圧を命令、翌朝の両軍の衝突をもって鎮圧されてしまう。

ヒトラーはその場を何とか抜け出すものの、2日後に逮捕され裁判にかけられてしまう。

結果ヒトラーは、国家反逆罪で禁固5年の実刑判決(1924年4月)を受け、

ナチ党は路線変更を余儀なくされる(ヒトラーは同年末に釈放される)。

結論から言えば、計画がずさんであり、「ローマ進軍」のように

軍の協力を得ずに行ったことが失敗の大きな原因と言えよう。

しかしこの失敗は、ヒトラーにとって大きな教訓となり

後のドイツ支配において大きな糧となることになる。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-⑫

<11>ヒトラー、歴史にその姿を顕す

アドルフ・ヒトラー。言うまでもなく20世紀を代表する独裁者である。

彼がその名を歴史に記すようになるのは、1919年9月の

ナチ党(当時はドイツ労働者党)入党からであろう。

ヒトラーといえば、「演説」が有名であるが、それは入党前からの才能であったらしい。

その才能をさらに飛躍させたのが、皮肉にも毒ガスであった。

ヒトラーは、大戦末期に毒ガスを浴びて入院していた。

一時的に失明し、さらに喉には一生残る傷を負ってしまった。

しかし、そのせいであの独特の声を手に入れた。

近年の研究では、ヒトラーの声には人を惹きつける波長であったと言われている。

まさに、「禍福は糾える縄の如し」である。

そして、1919年9月のヒトラーが直接入党のきっかけとなる党の集会での話。

彼は軍の情報仕官として、休戦後各地に勃興した新政党の調査をしていた。

その中にドイツ労働者党も当然含まれており、

彼はその集会に参加し、なんとその場で演説者を得意の演説によってやり込めてしまう。

それが党幹部の目に留まり、ヒトラーは入党することになったわけである。

また、軍内でもその才能は磨かれていた。

彼は、軍からプロパガンダの講習を受けており、反社会主義の教育を受けている。

彼の思想はこの頃にある程度固められたと考えていいだろう。

入党後のヒトラーは、その素晴らしい演説によって

瞬く間に多くの党員を獲得して党の中枢部にあっという間に食い込んでいった。

また、1920年2月には党の方針である「25か条綱領」を

アントン・ドレクスラーとともに制定している。

その内容は、国家社会主義、国粋主義(民族優位主義)、反ユダヤ主義を標榜した。

これらのうちの多くはナチスドイツにも継承されており、

すでにこの党が危険思想家の集まりであったことがわかる。

この頃には、ヒトラーは党内でも相当大きな勢力を持っており、

実際翌1921年6月にはヒトラーは党首に就任している。

しかし、そこは民主主義的な政党であるから、

当然党首脳部によって党首の権力は牽制、分散させられているわけである。

ヒトラーは、「25か条綱領」の思想を達成するために党の実権の完全掌握を目指した。

ヒトラーは、党幹部に自らの脱党をちらつかせ、

7月11日には実際に1度脱党している。

それに従うものが相当多かったのか、党幹部はヒトラーの独裁権を容認し、

7月26日に彼は党首として復党を果たす。

そして、彼の復党と同時に党名も「国家社会主義ドイツ労働党(通称ナチ党)」に変更した。

ここにヒトラーは、ドイツ支配の重要な脚ががりを手に入れたわけである。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-⑪

<10>穏健社会主義の敗北

前回のカップ一揆で、内閣がヘルマン・ミュラーに替わった。

それから3ヵ月後の6月、ワイマール憲法施行後初の国民議会選挙が行われた。

結果は以下の通り。

 社会民主党    163→102 (-61)      (与党)

 独立社会民主党  22→ 84 (+62)

 国家人民党     42→ 71 (+49)

 人民党        21→ 65 (+44)

 中央党        91→ 64 (-27) (与党)

 民主党        75→ 39 (-36)

 共産党             4

 バイエルン人民党      21 (中央党から分派)

カップ一揆の処理の不手際からか、まず与党両党が揃って大きく議席を減らした。

一方で、急進社会主義の独立社会民主党や、

国粋主義政党の国家人民党や人民党が躍進した。

この点から見ても、既にドイツ国民が迂遠な議会制民主主義に

限界を感じたような票の動きが見て取れる。

以降も、選挙の結果は何度か書くことになるが、だんだんと民主主義的ではない政党が

台頭してくることがわかっていただけることと思う。

日本は、実は真の意味で独裁体制になったことがない。

どんな時代でもだいたい上位の数名が合議して事に当ってきた。

戦後においても、自民党の1党支配が続いたとはいっても、

各派閥が絶妙のパワーゲームを繰り広げて誰かに偏ると言うことはそれほどなかった。

しかし、小泉はその最後のの天秤である派閥さえ解体して、

事実上総裁による独裁体制を構築してしまった。

日本は、この体制と、いったいどのようにして向かい合っていくのだろうか。

話をドイツに戻す。

第1党を維持したとはいえ、議席を2/3に減らした社会民主党は、

ひとまず元は同じ一つの政党だった独立社会民主党に連立を持ちかけたが、

革命直後に煮え湯を呑まされている独立党はそれを拒否。

今まで通りの中央党との連立だけでは政権を維持できない社会民主党は、

ついに政権与党から身を引くこととなる。

対する中央党は政権与党にこだわり、 以前ともに連立を組んだ民主党と、

今回躍進した国家人民党に働きかけてようやく連立政権を樹立。

首相には中央党のフェーレンバッハが就任した。

しかし、総議席数は174/450という少数与党である。

とはいえ、共和制になって始めてブルジョワ政党によって政権が占められることになり、

西欧各国は、ひとまず社会主義の西進が止まったことを喜んだであろう。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-⑩

<9>カップ一揆

今回は、ヴェルサイユ条約がドイツに何をもたらしたかについて。

もちろん、前回書いたようなハイパーインフレに代表される

経済的混乱を招来したのは事実だが、

ドイツ共和国は何しろ立ち上がったばかりでもともと政治的基盤が貧弱である。

ましてや、社会主義政権を首班とする穏健とはいえ社会主義的側面を持つ。

不満分子がそこここにいてある意味しかるべきなのであった。

その端緒となるのが1920年3月に起こった「カップ一揆」である。

リュネハルト率いる2個旅団が3月13日突如ベルリン市内になだれ込んだ。

これに対し、国防大臣ノスケは直ちに国防軍に対して治安出動を命じた。

しかし、国防軍隊務局長ゼークトは国防軍と国防軍が衝突することを避ける

という名目でこの命令を拒否。

エーベルト大統領は大統領府をべルリンからシュツットガルトに遷し、

併せて社会主義政権らしくゼネスト(全同盟罷業)を発動。

社会主義政党は従ったものの、共産党がノスケの方針に反対し足並みは乱れた。

しかも、ゼネストによってベルリンのライフラインはストップ。

そして混乱のベルリンで一人の男が突如首相を僭称した。

男の名はカップと言い、彼こそがこの動乱の仕掛け人であった。

彼は軍の重鎮ルーテンドルフとともに「祖国党」を結成。

ヴェルサイユ条約を破棄して戦争の継続を訴えた。

しかし、「祖国党」は名前だけの存在と言っても良く、

ゼネストのさなか彼のために働こうという官僚は現れなかった。

労働者階級にとっては革命に対する反動以外の何者でもなく、

しかもつまらぬ軍事クーデターのためにライフラインまで止められて

怒りは頂点に達した。

結果、カップはベルリン入城後わずか4日でスウェーデンへ逃亡、

目的を失った軍隊も兵営に引き上げ一揆はあっさり終息した。

しかし、ゼネストは収まらなかった。

理由は、労働者階級が共和国政府に対して強い不信を抱いたからである。

このことは、一揆開始から1週間後の20日、労使すなわち労働者階級と政府の間での

交渉の結果ひとまずゼネスト解除の合意が得られた。

また、一揆軍の鎮圧に失敗したノスケは解任された。

共産党の強い反対によるものである。

彼の後任には復興大臣ゲスラーが就任したが、

国防大臣には国防軍の人事権はそもそも持たされておらず、

いわばお飾りで誰にでも務まるポストであった。

そして、国防軍の実権を握る総司令官にはゼークトが就任した。

彼の採った中立策によってベルリンを戦火にさらすことなく、

また国防軍の犠牲を抑えたことによる功とも言えるが、

国防軍は政治のコントロールの利かない組織となり、

結局危険分子を温存することとなる。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-⑨

<8>ヴェルサイユ条約とポツダム宣言

今回は、ドイツの日本の対比としてともに戦後結ばれた

この2つに関して比較して考えてみようと思う。

まず、両方に共通して書かれていたことは以下の通り。

(1)領土の没収、割譲

 (ヴェ)海外の全領土及び植民地の没収、フランス側、ポーランド側の領地を

    それぞれの国に割譲

 (ポツ)領土を本州、北海道、九州、四国及び諸小島に限定し、台湾や韓国から撤兵

(2)武装解除

 (ヴェ)徴兵制の廃止、航空機、戦車、重火器の保有禁止、参謀本部の解散、

    陸海軍への厳しい軍備制限

 (ポツ)日本を世界征服へと導いた勢力の除去

違う点といえば、戦争責任の取り方であろう。

ヴェルサイユ条約では、それまでと同様に賠償金をとるという形をとった。

対するポツダム宣言では、戦争犯罪人を裁判によって少なくとも形式的には

法によって裁くと言う方法をとった。

第2次世界大戦では、ドイツも同様に裁判によって裁く形式をとっていた。

おそらく、これはヴェルサイユ条約で賠償金を取ったことによる反省に

基づくものと考えられるが、では賠償金を取ったことがいかに影響したのであろうか。

賠償金の金額は、条約では合意に至らず、ひとまず200億マルクの支払いを命じた。

1921年5月に定められた最終賠償額は、実に1320億マルク。

1923年当時、既にヴェルサイユ条約によるインフレーションが

始まっていたとはいえまだパン(おそらく1斤)の値段が250マルク。

これから考えて1320億マルクがいかにとんでもない金額かわかるだろう。

これにより、先に書いたとおりドイツではハイパーインフレが発生し、

アタッシェケースいっぱいのお金でコーヒー1杯しか買えないという

有名なエピソードが生まれるほどの経済破綻をきたした。

それに対し戦勝国は1924年、1929年に助け舟を出して賠償額の軽減を行い

経済は一度立ち直りかけたが、時悪く世界恐慌に見舞われドイツ経済は再び破綻。

ついに1932年のローザンヌ会議で賠償の廃止を決定したが、

時既に遅くドイツ国民は状況打開のためにヒトラーに政権を委ねる道をとった。

なぜ、このようなことになってしまったのか。

それは、20世紀に起こった戦争の変換に

政治家が追いつけなかったからではなかろうか。

20世紀以降、戦争は国家対国家の総力戦の様相を呈し、

日露戦争は結局ロシアの国情不安によって停戦を迎えている。

また、勝った(私見としては「負けずにすんだ」と表現したいのだが)日本も

賠償金を取ることが出来ず国債の大量発行による債務に悩まされることになった。

そのような状況で、死力を尽くして戦って負けた国からさらに賠償金を取れば

当時のドイツのようになるのはある意味当然の事で、

それに気付かず特にドイツに国土を蹂躙されたフランスは

懲罰的な条約を強引に結ばせたのだ。

これによって、ドイツは深い痛手を負うことになり、

ヒトラーという巨悪を生む遠因を自ら作ってしまったのである。

この反省から、第2次世界大戦では賠償金を取らず

戦争責任者を処罰することによりその責を負わせるシステムに変えたのである。

新生ドイツ共和国は、歴史の狭間であまりにも巨大な責め苦を負わされ、

ゼロどころかマイナスからスタートすることを余儀なくされたのである。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-⑧

<7>終戦、そしてヴェルサイユ条約

ここまではドイツ国内の変化について書いてきたが、

対外的にドイツはいまだ同盟国軍として交戦中であり、

その帰趨は新政府に委ねられるところとなった。

ドイツのUボートによるいわゆる「無制限潜水艦戦」によって、

この欧州大戦にアメリカが連合国軍側とともに戦うようになって、

戦況は大きく連合国軍に傾いた。

ドイツは、内外の状況を考慮して早々に終戦に向けた交渉のテーブルを

設ける必要に迫られていた。

1919年5月7日、終戦に向けた最初の交渉がヴェルサイユで始まった。

しかし、交渉を任されたブロックドルフ伯の態度が悪かった。

彼は連合国側から示された草案の特に内容のひどい部分を選んで読み上げた。

ドイツが特に抵抗したのが戦争責任のことである。

草案では、この戦争の全責任をドイツ1国に押し付けるものと解釈していたからである。

しかし、その点では結局連合国に押し切られ賠償金を払わせられることになる。

また、領土問題でも紛糾した。

ドイツ領土は、寸断され、あるいは削り取られることを余儀なくされた。

5月23日、一度この内容を本国に持ち帰ったのだが、

政府はこれを拒絶しようとしていた。それほど屈辱的な内容だったのだ。

しかし、連合国が仕掛けてきた。

態度を保留するドイツに対し6月16日最終案を提出、当初は5日以内の返答を要求した。

その後それは7日に変更されたが、

応じなければおそらく連合国軍の再侵攻が始まることは明白であった。

シャイデマン首相は、条約締結反対派であったが、閣内をまとめ上げることが出来ず、

6月20日内閣を総辞職した。責任を放棄したのである。

エーベルト大統領は、急ぎ新内閣を組閣する必要に迫られた。

正直、本人も逃げ出したかったところであったろう。

新内閣は、社会民主党と中央党で組閣され、首相にはヘルマン・ミュラーが選任された。

6月22日、新内閣の下で国民議会は召集されたが、右派を中心に署名反対に流れ、

議会は賛否二分された。

しかし、そのことがドイツにとって何の解決をもたらさないことも皆承知していた。

議案は、国民議会が署名に同意するか否かを持って争われ、

結果は署名賛成237、同反対138をもって可決。

しかし、翌日その内容が無条件降伏であることを知ると、議会は再び紛糾。

それを与党はようやくの思いでなだめ、期限切れ僅か80分前、

条約の無条件受諾を電報にて伝えた。

6月28日、ヴェルサイユ宮殿にて戦勝終結の署名が行われ、

ここに、史上初の国民国家間戦争第1次世界大戦は終結した。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-⑦

<6>~閑話休題~ 「全権委任法」

前回の予告どおり、今回は「全権委任法」について少し話をする。

「全権委任法」が成立したのは1933年のことである。

まずは、かいつまんで「全権委任法」成立までの経緯を記すことにする。

1932年11月、その年2度目の総選挙により、議席数を減らしながらも第1党を維持した

ヒトラー率いるナチス党は、ヒンデンブルグ大統領に首相の位を要求したが、

バーベン首相がこれに反対、あくまでも、自らの政権を維持しようと動いたが、

それを今度は国防軍の実力者シュライヒャー中将に反対され、

大統領はそのシュライヒャーに組閣を命じます。

シュライヒャーに裏切られたバーべンは、今度はヒトラーに接近。

そして、翌33年1月に行われたリッペ州(ドイツ中東部)選挙にヒトラーが勝利し、

30日にはヒトラー首相、協力したバーベンを副首相とするヒトラー内閣が成立した。

翌月、国会放火事件が発生、ナチスはこれを難敵共産党の仕業であると決め付け、

フリック内務大臣(ナチス党)の権限により警察を動員して

共産党員など計4000人を逮捕、拘禁。これにより、共産党は大打撃を受けた。

翌日ヒトラーは、

 ①大統領緊急令を制限できる

 ②武装蜂起・ゼネストに対し必要があれば中央政府が連邦各州の全権を掌握し、

  場合によっては死刑も科せる

という緊急令を混乱に乗じて制定してしまいます。 

ヒトラーは、政権支配を完成させるために3月にまたもや総選挙を敢行。

しかし、過半数すら得ることができず(288/647)、

ナチス支持を表明していた国家人民党の52議席を加えてもようやく過半数と言う

厳しい結果に終わってしまいました。

そこでヒトラーは首相権限で緊急令を発令、共産党議員81名ほか計100名以上を

逮捕もしくは病欠に追い込んだ。

しかし、このままでは120議席を持つ社会民主党全員が欠席すると

審議がストップする危険性があったため、

ナチスは中央党(74議席)に接近した。

そして議院規則を改正して無断欠席を出席扱いするという議長裁量権を与えた。

これにより、ゲーリング議長擁するナチス党が議会を支配、

3月22日に賛成441票をもって「全権委任法」は可決成立した。

さて、この「全権委任令」がいかなる法令であるのか。

それは「議会が持つ立法権をを政府に委任する(③)」というものです。

これら①~③をもって、ヒトラーは議会権限を掌握しかつ大統領の権限をも制限しうる

巨大な権限を握ってしまいました。

しかも、これをわりと民主的な方法で手に入れてしまいました。

これができるのも、ナチスが議会工作に長けていたためであり、

また民衆もナチスを支持して議員を多く送り込んでしまっためでもあります。

現在、自民党は小選挙区を利して4割そこそこの得票率で衆議院の2/3を掌握しました。

伝統的に議会工作に長けた自民党は、

これからかなり無謀な法案を続々通してくることでしょう。

しかし、これをおしとどめる手段を我々民衆は実は持ち合わせていないのです。

小泉独裁を危惧する声が止まないのは、まさにそのためなのであります。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-⑥

<5>ワイマール憲法

国民会議最大の仕事は、なんといっても共和国憲法の制定である。

181条に及ぶ憲法各条の審議は、会合にして40回に及んだ。

その中でプロイスの起草した憲法草案に修正が加えられ、

7月中には総会にて採択を受け、賛成262対反対75で通過した。

エーベルト大統領は8月11日、これに署名し、これによって憲法は成立発効した。

共和国憲法(以下単に「憲法」)の特徴は以下の通りである。

(1)国会中心主義とそれに伴う諸選挙制度

 選挙権を従来の「25歳以上の男子」から「20歳以上の男女」に増やし、

 しかも彼らに個人ではなく政党を選択させるために比例制をとった。

 これにより、小党分立を促進し、しかも代議士と選挙区との結びつきを弱める

 結果となった。その上、各党の比例順位も政党での働き次第で決まったため、

 民意が反映されずらい内向きの代議士が増えることにもつながった。

 これは、今回の日本の衆議院選挙にも多々見られ、

 落下傘候補や比例区との併用により、より国民と永田町の乖離を生むものと

 ドイツの事実を見る限り明らかである。

(2)内閣を指名する大統領を公選(直接選挙)制とした

 しかし、実際に政権を握る首相及び内閣は国会の承認を得ずして

 職務の遂行は不可能であった。

 よって、大統領よりも国会の方が原則としては強い力を持つことになる。

 大統領には、それに対抗する手段として緊急命令権という

 いわば独裁権が与えられている(憲法48条)。

 ただし、これも無制限と言うわけではなく、緊急命令に関しては首相もしくは

 担当閣僚の副署が必要とされていた。

 しかも、議会の要求によって直ちに廃止することも出来た。

 すなわち、国会を握った者が強者であり、

 それによって大統領の権限さえ制限することが可能であった。

 それを成したのがヒトラーであり、その際たるものが「全権委任法」であった。

 時間が行ったり来たりするが、全権委任法に至るまでの話は次回することにする。

もちろん、(3)社会権の明記についても本来は触れなければならないのだろうが、

それが当時充分に機能したかどうかを確かめるには

新生共和国の期間はあまりにも短すぎた。

つまり高邁な理想を掲げながらも、その欠点によって

国家そのものを結局は瓦解させてしまった憲法として多くの面において

後世の反面教師とされてしまった悲運の憲法であったと言えよう。

※<1>~<4>では資料として「ワイマル共和国史-Ⅰ」(ぺりかん社)を用いましたが、

<5>からは、「ワイマル共和国物語 上巻」(東大出版会)を用いております。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-⑤

<4>新生ドイツ共和国政府

選挙も終わり、臨時政府(便宜上そう呼ぶ)は2月6日に国民議会を召集した。

まだ、ベルリンは不穏の状態が続いていたために、国会はワイマールに召集された。

まず国会は、臨時憲法案(最終憲法草案)の可決を可決し、

それに伴って大統領の選出に移った。

大統領には、「人民代表委員会議」の牽引者エーベルトが、

379票中277票を獲得して初代大統領に選任された。

彼は、この数ヶ月で社会民主党ばかりではなく

広い層から信頼を勝ち得ていたといえるので、この結果はある意味当然とも言えた。

エーベルトに課せられた次の仕事は、国会の総意に基づく新政府の任命であった。

議会で多数派を構成する方法は、主に以下の二つであった。

 (1)非社会主義政党の糾合(226/421)

 (2)社会民主党(エーベルトの所属政党)と中央党(第2党、共和主義)、

   民主党(第3党、共和主義)との連立

エーベルトが選べるのは当然(2)のみであった。所属党であることはもちろんのこと、

民意の反映と言う意味から言っても当然の選択と言えた。

以下は、エーベルトによって選任された内閣の主要ポストである。

 首相             シャイデマン(「人民代表委員会議」メンバー)

 国防軍(旧陸軍)担当大臣 ノスケ(「人民代表委員会議」メンバー)

 法務大臣           ランツベルク(「人民代表委員会議」メンバー)

 内務大臣           プロイス(民主党)

 大蔵大臣           シッファー(旧国民自由党員)

 国務大臣           ゴータイン

  そのほか、中央党からエルツベルガー、ベル博士、ギースベルツが入閣

これを見ればわかるが、新生ドイツ政府は3党連立政府であり、議会内では

総議席のじつに3/4(326/421)を占める大勢力となった。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-④

<3>国民議会

「人民代表委員会議」は対外的には休戦、講和の準備を進めつつ、

対内的には共和国と言う政体にふさわしい共和国憲法作成の準備も行っていた。

その草案の作成責任者には内務大臣を充てることに決まっており、

その任には、ベルリン商科大学国法学教授であるプロイス教授に決まった。

彼は、ユダヤ人ということもあって長く不遇であった。

それまで講師であったものが、商科大学が新設されることで

ようやく教授の身分を手に入れることが出来たのである。

また、左派の政治家として活動しおり、口も悪かった。

そんな彼に白羽の矢が立ったのは、

1917年7月に当時の宰相ベートマンに出された意見書の内容によるものであった。

それには、立憲政治の方向転換の必然性や、

当時はまだ君主制が残っていたために君主制の性格を維持しながら

方向転換するための案を、見事に書き上げてあった。

そのため、これを読んだ誰しもが「彼こそ憲法草案作成に最適である」と思ったのである。

そうして作られた彼の憲法草案で特に問題になったのは、

いままでの連邦制ではなく強力な中央集権主義であった。

これには、右派も左派も反対した。

まず、西部のラインラントが反旗を翻し、「ライン・ウェストファーレン独立共和国」

設立の機運がこの地方で高まった。

彼らの主張は、あくまでもドイツ連邦には留まるというもので、

あくまでも中央集権に対する非難による運動であることを強調していた。

しかし、この中央集権批判はそのうち一人歩きを始め、

ついには赤旗を揚げて社会主義国家として分離独立を目指すところまで現れてしまった。

南部のバイエルン邦では、その首都ミュンヘンに赤旗が翻り、

極端な社会主義的分離主義が台頭してきた。

当時のバイエルン邦政府が猛烈な反プロイセン派で固められていたからでもある。

中央政府は、「これはあくまでも草案である」とか何とか言って

これらの運動をようやくの思いで鎮め、ドイツ国民を国民議会選挙へと向かわせた。

当時は、まだ当然のことながら憲法が出来上がっていなかったっため、

プロイス内務大臣の署名による条例によって行われた選挙である。

選挙権は20歳以上の男女ともに与えられ、比例代表制によって行われた。

以下は、その結果である(議員総数421)。

 社会民主党    163(穏健社会主義)

 独立社会民主党  22(急進社会主義)

 国家人民党     42(君主制支持)

 人民党        21

 中央党        88(選挙後、バイエルン選出議員が離脱)

 民主党        75(反社会主義票を吸収して躍進)

 諸派         10

選挙では、マックス・ウェーバー(社会学者)も、

プロイスも名簿にすら載ることが出来なかった。

ともかく、休戦以来臨時にとはいえ政権を牽引してきた両社会主義政党は

国民議会で過半数を得られず、さらに各地からの反中央集権の動きを察して、

憲法草案は大幅な路線変更を余儀なくされた。 

国民議会に提出された最終案とも言うべき「臨時憲法」案では、

ドイツ国憲法の決定権を国民議会に与えたものの、

それ以外の立法行為については各州の代表委員会の同意を要するとした。

また、国家行政機関としての政府と大統領制を定めた。

プロイスは、完全なる中央集権を断念せざるを得なかった。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-③

<2>休戦後の混乱

前回より少し日付は戻って、1918年11月8日。

ドイツ皇帝の退位を受けて元国務大臣シャイデマンは、

国会議事堂の窓より共和制を宣言し、それに数千人の民衆が拍手喝采を送った。

シャイデマンには野心があった。

彼が属する社会民主党(以下社民党)は社会主義政党であり、かつ野党であった。

彼は、この気に一気に共和制を宣言しその中心に自分たちがを置かんとした。

一方、帝国宰相の位をマックス大公から譲られたエーベルトは慎重派であった。

講和交渉もいまだままならないと言うのに、

王権派と事を構えるような共和制へ移行したのでは

まさに内憂外患そのものであったからである。

しかし、シャイデマンの宣言は既に独り歩きを始めており、

取消不明なものとなってしまっていた。

結果、社民党を首班とする新ドイツ国政府が暫定的に成立することになった。

政権に参加したのは、社会民主党以外には独立社会民主党(以下独立党)という、

社民党から以前分化した過激派の党である。

しかし、独立党は入閣の条件として

「全労働者住民及び兵士から選ばれた代表委員」に全権力を集中させるべきとし、

社民党もこれをしぶしぶ了承した。

社民党としては国民議会の早期開催を願ったが、

ひとまずは講和をまとめるために政府を確固たるものにするべきであろうという

現実論を優先させたのであろう。

しかし、1度袂を分かった者が、

国家の危難とためとはいえ再び手に手をとってという訳には行かず、

この関係は2月とはもたなかった。

原因は、ベルリンの旧王宮を占拠した「人民海兵団」に対して政府が軍隊を投入して

これを鎮圧しようとした行為を、独立党が軍国主義復活の兆しと考えたからであった。

残された社民党政府は、混乱を鎮め地歩を築くために止む無く軍に頼ることとなった。

とはいえ、軍も長い戦乱の後ですっかり疲弊しきっていた。

そこで政府は、軍に顔の利くグスタフ・ノスケを「人民代表委員会議」の委員に加え、

さらに彼を戒厳司令官に任じた。

彼が率いた新設部隊には経験豊富な旧帝国軍の職業将校も編入されていた。

そのことは初めは問題にならなかったがベルリンの騒乱が収まってくるころには、

将校たちの間には自負心の著しい高揚が、

ブルジョア階級出身者が中心であった隊員の中にはこの騒乱を以って

「ドイツには民主主義も共和制も適さないのではないか」という懸念を抱く者を生じさせた。

しかし、非常事態であること自体が彼らを一つの共同体として

強引に結び付けていたのであった。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-②

<1>ドイツ帝国崩壊

まぁああ書いては見たものの、歴史とは因果の連続。

ワイマール共和国のことを書くとなれば、まずその建国に至るまでの話をせねばならない。

というわけで、今回は帝政ドイツの崩壊について書く。

ドイツ帝国最後の皇帝ウィルヘルムⅡ世。

彼は民衆に「朕は汝等を偉大なる時代へ導く」と豪語し、

オーストリアとの同盟を重視して第1次世界大戦の戦火へと飛び込んだ。

しかし、その時点で軍部からは「将帥たる器ではない」と思われていたし、

政治家の器でないことも政府閣僚から認知されるところとなっていた。

なぜなら、臣下の意見に対して決然と抵抗できないほど意思が薄弱であったからである。

皇帝たるものは最高権力者であるから、

法やその権限を逸脱するものに対してはそれを守らせなければならないものである。

にも拘らず、その意志の弱さによって結局は軍部の独走を許し、

戦渦を徒に拡げてしまう結果となってしまったのである。

この点においては、日本の昭和天皇にも同様の傾向が見受けられる。

話はドイツに戻る。この、軍部の独走による厄災の際たるものは、

戦略上悪名高い「無制限潜水艦戦」である。

この作戦が陸軍最高幕僚たるヒンデンブルグ、ルーテンドルフの両将軍から出された時、

海軍大臣ティルピッツは反対したが、当時常勝と言われていた陸軍に対して

当時の宰相ベートマンは抵抗しきれずティルピッツを罷免してしまった。

しかし、今度は当のベートマンが外交上の問題点を指摘してこの作戦に反対した。

これに対して軍部は、この問題を皇帝に直接上奏、

作戦遂行の裁可を受けた(1917年1月)。

結果として、当時いまだ中立を保っていたアメリカをこの戦争に引きずり出すことになり、

ドイツは惨敗。海外の植民地を含め多くの領土を失うことになった。

ココまで見ていくとわかるが、この道を大日本帝国を歩むわけで、

歴史とは多くの示唆を含んでいることがわかるであろう。

再び話をドイツ帝国に戻す。

戦況が劣勢になって久しい1918年9月末、

最高幕僚たる両将軍は帝国宰相(当時はヘルトリング)に即時休戦の必要を説いた。

宰相もそれを了承、皇帝はもとより「よきに計らえ」状態であったから、

宰相はアメリカを仲裁役に選んで休戦、講和の準備に入った。

しかし、ここでアメリカ側が提示してきた「14条の覚書」では

アメリカはドイツに対し講和ではなく降伏を要求した。

これを見た閣僚は戦慄し、

「最高責任者たる皇帝が退位してくれれば、これよりもいい条件で講和できるのでは」

とさえ考えるようになった。

議会では、もっぱら皇帝退位問題が取り上げられ、

民意も、そして前線の兵士も退位の方向に傾いていた。

ベルリンに居場所を失った皇帝は、前線へと出かけていった。

そして1918年11月4日、皇帝に致命的打撃を与える事件がキール軍港で起こった。

きっかけは、停泊していた全艦艇に赤旗が掲げられたことであった。

そこから革命的水兵が隊を組んで、各地へと革命の炎を広めるために繰り出していった。

それに対して、国家に鎮圧する能力はなく、社会主義政党である社会民主党も

党員を押さえつけられないほど革命は広まっており、

皇帝の退位を重ねて訴えるほか手段を持たなかった。

そして11月9日、皇帝の退位と皇太子の帝位継承権放棄が宣言され、

同11日休戦条約に調印、全戦線で銃声が止んだ。

そして、ドイツは共和国へ変わる道を歩みだした。

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「ワイマール憲法」とヒトラー、「日本国憲法」と小泉-①

今回から、何回シリーズになるかわからないが、

20世紀を代表する独裁者ヒトラーと、小泉純一郎を

それぞれの時代の憲法をものさしに比較していきたいと思う。

まず、この二つ憲法には大きな共通点がある。

それは、「戦争の反省を基に作られた」という点。

そのためにワイマール憲法では、史上初めて「社会権」

(人間に値する生活を営むために国民が国家に対して保障を要求する権利)

を規定し、日本国憲法では史上初めて戦争放棄をそれぞれ明記した。

社会権の明記が、それ以後に作られた日本国憲法にも大きく影響したことは

周知の事実であるが、戦争放棄がこれからの世界に果たす役割がいかほどであるかは、

これからの評価をまだ待つ必要があるかもしれない。

私自身、まだワイマール憲法に関する研究が進んでいないので、

今日はこの点にのみ触れて終わりとするが、

なんとか小泉純一郎がその座を他の誰かに譲る前にこの研究を完結したく思う。

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